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HYORON FORUM:予防医療と医療費の関係

月刊『日本歯科評論』では歯科界のオピニオンリーダーに時評をご執筆いただく「HYORON FORUM」というコーナーを設け,コラムを掲載しています. 本記事では6月号に掲載した「予防医療と医療費の関係」を全文公開いたします(編集部)

康永秀生/東京大学大学院医学系研究科 臨床疫学・経済学


「予防で医療費を抑制」という誤り


はじめに,予防医療は絶対に重要である.予防によって疾病の罹患や進行を抑えたり,早期発見・早期治療につなぐことは,人々の健康増進に必要不可欠である.
一方で,予防医療が総医療費の抑制につながる,と考えるのは誤りである.生活習慣病やがんなどの慢性疾患は,予防対策によって短期的に医療費がいくらか削減されたとしても,生涯にかかる医療費を削減することはできない.

「予防が医療費を削減できない」ことは,2000年代後半までに多くの医療経済研究によって明らかにされてきた.
しかし一般には,最近までこの誤った考えがまかり通ってきた.2006年に厚生労働省が,「メタボ健診によって2025年には約2兆円の医療費を削減する」という目標を掲げた.根拠のない数値目標を設定することはまったく無意味だ.厚生労働省が「予防が医療費を削減」を建て前にしてきたため,医療の現場もそれを信じ続けてきたのである.

なぜ,予防で医療費は減らないのか?


理由は単純明快である.予防対策は,慢性疾患に罹患して医療費がかかるタイミングを先送りしているにすぎないからだ.
多くの人々が,いずれはがん・心臓病・脳卒中などの慢性疾患にかかり,そして必ず死亡する.終末期の数年間に医療費がかかる.

に,「予防あり」の場合と「予防なし」の場合での,各年齢人口における総医療費のイメージを示す.予防なし群のほうが比較的若い年齢で疾病に罹患し,医療費がかかってしまう.

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しかし,予防なし群は,予防あり群より早期に死亡し,その後は医療費がかからなくなる.一方,予防あり群はより遅いタイミングで疾病に罹患し,生涯でみれば予防なし群と同様に医療費はかかるのである.


歯科疾患予防と歯科医療費

医科と異なり,生命に直結する疾患がほとんどない歯科医療においては,予防と医療費の関連もやや事情が異なる.
歯科疾患予防の重要性は論を俟たない.また,予防によって生涯にわたり歯科疾患罹患を回避できれば,歯科医療費を軽減できるかもしれない.

一方,歯科疾患予防は生活習慣病の予防にもつながるかもしれない.それによって,短期的には生活習慣病にかかる外来医療費を軽減できるかもしれない.
しかし,その人の生涯にかかる総医療費が大きく削減されることはないだろう.


厚生労働省の変節


筆者は2017年1月の『日本経済新聞』のコラムに,「予防は医療費を削減しない」という話を初めて書いた.その反響は予想外に大きく,他の新聞社の取材依頼,出版社の執筆依頼,財務省の役人や政治家たちからのヒアリング依頼などが相次いで舞い込んだ.
最近になってようやく落ち着いたと思っていたところ,このたび『日本歯科評論』から依頼を受け,この原稿を書いているところである.
健保や国保の団体からも講演依頼が来た.彼らは,厚生労働省が旗を振ってきた「予防で医療費削減」をスローガンに,メタボ健診を忠実に実施してきた.にもかかわらず,それを否定されているかのようで,やや当惑しているといった風情であった.
そのため講演では,「予防医療は絶対に重要である」と必ず前置きする.「予防医療を実践している現場の医療従事者たちの仕事は,本当に尊い」と説く.そのうえで,「医療費の話は切り離して考えましょう」と話し,ご納得いただいた.

2018年の末ごろに,厚生労働省の役人が筆者を訪ねてきた.予防と医療費の関連については諸説あるので,多数の学者が集って議論する場を開きたい,とのことであった.誤った説を含めれば諸説あるのは確かであるが,正論はただ一つである.とは言え,議論の場には出席した.
議論の内容を厚生労働省が「『健康寿命の延伸の効果に係る研究班』議論の整理」という文書(https://www.mhlw.go.jp/content/10904750/000495324.pdf)にまとめている.キーメッセージは以下のとおりである.

「医療費については,短期的な費用増加抑制の可能性が指摘される一方で,生涯の医療費については,健康寿命が伸びた場合には寿命も伸び疾病にかかるタイミングを先送りしているとの考え方から,あまり変わらない又は増加する可能性が高いとする考え方と,仮に寿命の伸びを上回る健康寿命の伸びが実現された場合には,生涯医療費も抑制され得る,との考え方が示された」

厚生労働省の変節である.
なお,「仮に寿命の伸びを上回る健康寿命の伸びが実現された場合」とあるが,「寿命の伸びを上回る健康寿命の伸び」はあったとしてもごくわずかに過ぎないことも,すでに知られているところである.


予防と医療費の関係をどうとらえるか?


医療は,医療費を節約するために施されているのではない.慢性疾患の予防対策は,「若いうちに病気にかからない」ための重要な投資である.
投資であるから,お金は余計にかかるのであって,それに見合う健康アウトカムを獲得できれば良しとすべきである.
高齢に至って病気にかかり死に至るのは自然の摂理である.予防対策がその摂理を曲げることはなく,終末期にかかる医療費まで帳消しにしてくれるわけではない.


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