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文化大革命って何?

政治を少しずつ理解するマガジン

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文化大革命って何?

ちなみに「文化大革命」は英語では、the Chinese Revolution、Cultural Revolutionと言います。全称は、無産階級文化大革命、略称は文革(ぶんかく)。文化大革命とは、中国共産党中央委員会主席。毛沢東による文化改革運動と銘打った運動。その実態は何か?なぜ起きた?起きてどうなった?をみていきましょう。

冒頭におけるまとめ

文化大革命
Huffpost: 文化大革命を君は知っているか? 中国にはかつてこんな時代があった

文化大革命とは、1966年から1977年までに起こった、毛沢東が失敗に終わった大躍進政策の埋め合わせをしつつ、復権を試み、その結果、多くの人々が殺され、死に、虐殺や人肉食まで発生した悲劇。開高健の『最後の晩餐』のなかにも中華人民共和国の小説家、老舎(ろうしゃ)が子どもたちに迫害され、自害する話が紹介されていました。

老舎(ろうしゃ)(1899–1966)


いつ起きた?

中華人民共和国で、1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言されています。ちなみに1966年、日本は昭和41年。

なぜ起きた?

起きた、というよりは「なされた」。行ったのは、中国共産党中央委員会主席、毛沢東。他国からは文化大革命と言う名の奪権運動とされています。


毛沢東とは?

毛沢東(Mao Tse-Tung、マオ・ツォードン)(1893–1976)

まず毛沢東。英語だと、Mao Zedong。Maoismということばもあって、「毛沢東思想」という意味。1893年生まれで、1976年82歳で死去。天安門広場に肖像画が掲げられています。日中戦争後の国共内戦で、蔣介石率いる国民党政府を台湾に追放し、1949年10月1日に中国大陸にて中華人民共和国を建国した政治家です。

毛沢東自身の著書「毛主席語録」は30カ国以上に翻訳され、世界に農本思想(「農は国の本」とする社会思想)的な「毛沢東思想」を強く印象づけ、各国の知識人やフランスの五月革命などの政治運動にも大きな影響を与えました。

「文化大革命」は何を目指したのか?

文化大革命の名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」というもの。その実態は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇に譲った毛沢東が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動や大衆を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための権力闘争だったという見方があります。

文化大革命終結後の1978年、鄧小平は中国の新しい最重要指導者となり、文化革命に関連する毛沢東主義の政策を徐々に解体していきました。また鄧小平は、文化大革命によって疲労した中国経済を立て直すために、市場経済体制への移行を試みました。

大躍進政策

中国共産党の毛沢東党主席(左)とソ連共産党のニキータ・フルシチョフ第一書記(右)

大躍進政策(英語: Great Leap Forward)とは、毛沢東党主席の指導の下で、1958年5月から1961年1月までのあいだに中華人民共和国が施行した農業と工業の大増産政策反対派を粛清し、合作社・人民公社・大食堂など国民の財産を全て没収して共有化する共産主義政策を毛沢東は推進しました。そして数年間で核武装や高度経済成長によってアメリカ合衆国やイギリスなどの先進国に15年以内に追い越すと毛沢東は宣言しています。しかし現実には、強引な手法と多数の人民を処刑死・拷問死させました。大飢饉も発生し、推定1,500万〜5,500万人が死亡したとされています。産業・インフラ・環境も大破壊を起こし、大失敗に終わりました。


紅衛兵とは

天安門広場で毛主席語録を掲げる紅衛兵

紅衛兵(こうえいへい)は、中華人民共和国の文化大革命時期に毛沢東によって動員された全国的な学生運動です。学生が主体ですが、広義には工場労働者を含めた大衆運動。紅衛兵の動きは、1966年の北京の「赤い八月」の最中とその後に最高潮に達しました。

毛主席語録

『毛主席語録』(もうしゅせきごろく)は、中華人民共和国を建国しは毛沢東の著作などから引用、編集された語録。日本では『毛沢東語録』としても知られています。表紙の赤色から、西側諸国では“Little Red Book”とも呼ばれています。

革命は、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。

という言葉が『毛主席語録』に掲載されており、これがスローガンとなって、多くの人々が暴力に走りました。

「文化大革命」で誰がどれくらい殺されたのか?

文化大革命での推定死者数は、

数十万人から2,000万人

に及ぶといわれています(※1)。ちなみにルワンダの大虐殺で殺された人数は、およそ50万人から100万人。北京の「赤い八月」、広西虐殺(こうせいぎゃくさつ)、内モンゴル人民革命党粛清事件といった大量虐殺と共食いが、発生しています。


赤い八月

赤い八月は、文化大革命の1966年8月を意味し、主に期間中に起こった北京での一連の虐殺を示した言葉(※3)。1980年の公式統計によると、1966年の8月から9月までに多くの学校の教師と校長を含む合計1,772人が紅衛兵によって北京で殺害されました。さらに、33,695戸の家屋が略奪され、85,196世帯が北京を離れることを余儀なくされました。「赤い八月」のあいだの実際の死者数は10,000人を超えていたと指摘している学者たちもいます。

広西虐殺

広西虐殺(こうせいぎゃくさつ)とは、文化大革命中に広西チワン族自治区で発生した虐殺と人肉食

広西チワン族自治区は、ベトナムと国境を接する中国南部の自治区。

中国本土での公式の死者数は10万人から15万人。 虐殺と共に大規模な人肉食が、武宣県と武鳴区を含む多くの郡で起こりました。しかし当時の広西において飢饉の発生はありませんでした。一部の研究者によると、広西チワン族自治区の約30の郡で人肉食が報告され、これまで犠牲者のうち421人の名前が判明しています(※4)。虐殺は、生き埋め、石打ち、溺死、釜茹で、腹裂きの刑、心臓や肝臓を抉り出す、肉削ぎ、ダイナマイトでの爆破などという方法で行われました。

なぜ、カニバリズムが行われたのか?

2016年、フランス通信社(AFP)のインタビューで、1980年代初頭の公式調査の上位メンバーは、

「すべての共食いは階級闘争が扇動されたためであり、一種の憎悪を表現するために使用されました。殺人より恐ろしく、獣よりも悪かった。」

と答えています。また2016年にフランス通信社(AFP)にインタビューされたとき、香港科技大学の丁學良教授は、

「これは飢饉時のような経済的困難のために共食いではなかった。それは経済的な理由によるものではありませんでした。それは、政治的出来事、政治的憎悪、政治的イデオロギー、政治的儀式によって引き起こされました。」

と回答してます。(※4)

内モンゴル人民革命党粛清事件

内モンゴル人民革命党粛清事件は、文化大革命中の1966年から1976年にかけて、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件。


文化大革命の概要

当時の中華人民共和国の経済は、大躍進による混乱ののち、党中央委員会副主席兼国家主席に就任して実権を握った劉少奇(りゅう しょうき)鄧小平(とう しょうへい)共産党総書記が、市場経済を部分的に導入し、回復しつつあったが、毛沢東はこの政策を、共産主義を資本主義的に修正するものとして批判していました。


劉少奇(りゅう しょうき)


鄧小平(とう しょうへい)
中華人民共和国の政治家。同国の最高実力者(1978年12月22日 - 1989年11月9日)。改革開放・一人っ子政策などで毛沢東時代の政策を転換し、現代の中華人民共和国の路線を築きました。

「中国革命は、(劉や鄧のような)走資派の修正主義によって失敗の危機にある。修正主義者を批判・打倒せよ」

というのが毛沢東の主張でした。そのころ、毛沢東を支持する学生運動グループがつくられ、清華大学附属中学で張承志によって紅衛兵と命名されました。毛沢東の腹心の林彪は、指示を受け、紅衛兵に「反革命勢力」の批判や打倒を扇動しました。実権派や、その支持者と見なされた中国共産党の幹部、知識人、旧地主の子孫など、反革命分子と定義された層はすべて熱狂した紅衛兵の攻撃と迫害の対象となり、組織的・暴力的な吊るし上げが中国全土で横行しました。劉や鄧が失脚したほか、過酷な糾弾や迫害によって多数の死者や自殺者が続出し、また紅衛兵も派閥に分れて抗争を展開しました。さらに旧文化であるとして文化浄化の対象となった貴重な文化財が甚大な被害を受けました。

紅衛兵の暴走は、次第に毛沢東にすら制御不能となり、毛は1968年に上山下郷運動(下放)を主唱し、都市の紅衛兵を地方農村に送りこむことで収拾を図ります。その後、林彪は毛と対立し、1971年9月毛沢東暗殺計画が発覚したとされる事件が起き、飛行機で国外逃亡を試みて事故死しています(林彪事件)。

林彪(りん ぴょう)

林彪の死後も「四人組」(1960年代からの中華人民共和国の文化大革命を主導した江青・張春橋・姚文元・王洪文の四名)を中心として文化大革命は継続しました、1976年に毛沢東が死去、直後に四人組が失脚して、文化大革命は終息しました。

犠牲者数については、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第十一屆三中全会)において「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計されています。しかし、文化大革命時の死者数の公式な推計は、中国共産党当局の公式資料には存在せず、内外の研究者による調査でも40万人から2000万人以上と諸説あります。大革命によって、1億人近くが何らかの損害を被り、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらしました。一方で、毛沢東は大躍進政策における自らの失策を埋め合わせ、その絶対的権力基盤を固め、革命的でカリスマティックな存在を内外に示しました。より市場化した社会へと向かおうとする党の指針を、退行的な「農本的主義」へと押しもどし、ブルジョワの殲滅を試みました。また大学によるエリート教育を完全否定したため、西側諸国の文化的成熟度から後退し長期にわたる劣勢を強いられることになりました。

その後、鄧小平率いる改革派が、政権を握ったことにより段階的な毛沢東主義の解体が始まります。1981年、中国共産党は、文化大革命が「中華人民共和国の創設以来、最も厳しい後退であり、党、国家、そして国民が被った最も重い損失を負う責任がある」と宣言しました。


日本からみた文化大革命

文化大革命が始まった当初、日本ではその実態が広く把握されていませんでした。しかし、1966年(昭和41年)4月14日、全国人民代表大会常務委員会拡大会議の席上で、郭沫若(「かく まつじゃく」政治家・文学者・考古学者・歴史学者が、「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである」と自己批判をさせられたことが報じられると、川端康成、安部公房、石川淳、三島由紀夫らが連名で抗議声明を発表しました。その声明において、以下のように述べられ、力の言論への介入を厳しく批判しました。

「われわれは、左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明するものである……
学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する」

 「参考作品1」(共同執筆)『三島由紀夫全集』35巻P635(新潮社『三島由紀夫決定版全集36巻』P477)

終わりのまとめ

毛沢東という存在が残した中華人民共和国への爪痕は深くて広い。にもかかわらず、建国の人物としてか、いまだ天安門広場にその肖像画が掲げられていることについて、中国国内ではどう受け止め、考えているのか、知りたい。

参照

※1:文化大革命



※3


※4



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