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さよならの儀式

 桜の季節である。花は盛りを、月はくまなきをのみ見るものかはと言ったのは兼好であったが、凡人はやはり盛りの桜に心ときめくものだ。勿論兼好が言うように、桜の蕾がふくらむのもどきどきするし、春の嵐が桜を思い切り散らすのにも、心はぞわぞわする。それでも一番好きなのは、満開の桜の下をそぞろ歩きながら、時折吹く優しい風に花びらがふわふわと舞うのを視線で追っていく、そんな瞬間だ。  4月になり保育園の年長さんになった孫のいっちゃんを送りながら、そんなことを考えていた。保育園の門の脇にある

    • 自己紹介

       自己紹介をする時、私はいつも好きな四字熟語を言います。  「明窓浄机」これが私の好きな四字熟語。何も深い意味はありません。教訓、人生訓もない。探せばあるのかもしれませんが、単純に明るい窓と清らかな机。それでいい。子どもの頃の家が思い浮かびます。3部屋しかない小さな家でしたが、そこは私の大切な世界で、その家の、光が降り注ぐ窓辺で私は机に向かい、本を読みます。至福の時でした。時には雨が降る窓辺で、雨に打たれる椿と、その根元にできる小さな水たまりをぼんやり眺めるのも幸せなことでし

      • 文字を見る

         父は達筆であった。釣果を魚拓にし、その脇に筆で何やら文章を書いていた。それを茶の間の壁に貼り、家族は常に眺めさせられた。魚はもちろん、太公望が魚拓にしたくなるほどの大きさで見事であったが、何の魚か忘れてしまった。また脇に書かれていた文言も、今では正確に思い出せない。母は自分の悪筆を嘆いていて、学校からの通知の返信を書くのは父の役目であった。父の角ばった文字は、力強くもあり繊細でもあった。その文字のように、父は気が強く、その一面繊細なところもある性格だったのかと言えば、そうだ

        • 聖地巡礼

           大学時代の友人が亡くなった。専攻が同じで、4年間を共に過ごした仲だ。大学4年の冬には、ふたりでヨーロッパ旅行に行った。ローマ、パリ、ロンドンの順に3都市を周遊したのは懐かしい思い出だ。その友人のお連れ合いから、葬儀からちょうど1か月後に連絡があり、そのヨーロッパ旅行の時の写真の撮影場所を教えてほしいと頼まれた。お連れ合いは友人の生前から写真の整理をしていたということで、本人から聞いて大体はわかるのだが、ただその当時の彼女の記憶も曖昧で甚だ心許ないので、ぜひ確認してほしいとい

        さよならの儀式

          八重のこと、節ちゃんのこと

           11月の初め、私と節ちゃんは横須賀線の車内にいた。節ちゃんと会うのは8年前の神楽坂でのランチ会以来だった。私たちは、6人グループの仲間のひとりである、八重の家がある千葉に向かっていた。  八重のお連れ合いから、節ちゃんに連絡があったのは前日のことだった。八重の〈連絡してほしい人一覧〉の、大学時代の友人の一番最初に節ちゃんの名前があり、それで電話をしたということで、もう長くないと思うので会いに来てやってください、というのが連絡の趣旨だった。節ちゃんから私に電話があり、残りの3

          八重のこと、節ちゃんのこと

          節ちゃんのこと

           「姉が貞子で私が節子だって、何それ。」と言って、節ちゃんは唇の端をちょっと歪めて笑った。愁いを含んだくっきりした二重瞼で、わずかにあがった頬骨の下がすっきり削れている節ちゃんは、そんな笑い方も美しかった。大学2年の夏休み、8月も末のことだった。同じ国文学専攻で共通の授業が多く、自然と仲良くなった6人グループのうちのひとりが節ちゃんだった。地方出身で一人暮らしの私に、節ちゃんは時々お弁当を作ってくれたりもした。  「父親がつけた名前。」と節ちゃんは付け加えた。お父さんは大学で

          節ちゃんのこと

          澤の金魚屋

           古き良き名でいうところの、遠江の国は浜松市に「おっこ」という女の子がいた。おっこは浜松市の蜆塚という町に住んでいた。蜆塚にはその名の通り、縄文時代の人々が食した貝の殻を捨てた貝塚があり、そこは遺跡として国に指定されている。当時の竪穴式住居がいくつか再現されているこの遺跡は、おっこの格好の遊び場だった。遺跡の近くには小さな湖もあり、湖の周りの、子どもの背丈ほどもある薄野原でのかくれんぼも楽しかった。また、ちょっと距離はあるが、鴨江というところに根上がり松という不思議な松が2本

          澤の金魚屋

          東京のバスガール

           19で結婚した母は二十歳で兄を産んだ。そして翌年にはその幼い子を連れて婚家を飛び出した。姑や小姑との関係が芳しくなかったからだ。その母を追うように父も実家を出た。実家は乾物屋を営んでいたが、父は勘当され職を失い、小さな町工場に勤めた。  やがて私が生まれたのが2年後の昭和31年のことであった。両家の親戚中の怒りを買っての分家であり、着の身着のままで家を出たため、何もない生活の始まりであった。私が4歳の時に両親は家を持つのだが、それまでは私が生まれた二軒長屋の二間での生活であ

          東京のバスガール