自分史的なクリッピング史料

毎日大谷選手並びにドジャースの活躍と紅麹の件でメディアは騒がしい。昨日は新社会人の入社式の模様が多く紹介されていた。大谷選手のケースではその喧騒はこれからの水谷氏との真相の行方しだいだろう。紅麹の原因とその発生過程も追々明らかになっていくはず。

昨日から色々な意味で自分も次なるステップを踏んでいかなければと思っているところ。勿論それでも悩みは多いし消えることはない。日常を大過なく過ごすこと自体でも大変なのに、自分のやろうということは決まっているのだけれど、どうも仕掛けや仕組み作りに懸念というか疑問が解消できないままでいる。新社会人や新入生はいったいどんな気持ちで臨んでいるのだろうか。希望と不安をたくさん抱えて一日一日を消化していくのだろう。そうした不安定期においては心のケアというのも積極的に考え、よりどころがそのうち欲しくなるかもしれない。

2023年4月8日 日経 言葉のちから 若松英輔
遠藤周作 『イエスの生涯』『深い河』

2023年は遠藤周作の生誕100年とあって様々な企画が持ち上がっていることが冒頭で紹介される。遠藤さんの言葉は幅広い人に受け入れられ影響を与えているとして、その理由を、優れた文章家だったからではなく、見過ごしがちないくつかの大切なことを繰り返し言葉を尽くして語ったからだとおっしゃっている。例えば、事実と真実は同じではない、生活と人生は次元を異にする、などと遠藤さん言。

まず事実は第三者によって検証でき、対象によっては実験できる場合も。ところが真実はつねに一度しか起こらない。まるでコナンのようだ。そして個から個へ伝わる、と少々抽象的な表現の記載。真実は実験の対象にはなり得ない、ということで、コナン君が再現しようとする推理は実験で真実ではない。加えてその人の全身で経験されるところにのみ生起するとある。

遠藤さんは、イエスの生涯で新約聖書との向き合い方にふれて、事実と真実をめぐっての見解を示している。要はイエスの生涯を事実をもとに正確にたどることはできないけど、聖書を読むことで、イエスやそれをとりまく人間のイメージがつかめるのは、それは真実のイエス像だからだとおっしゃっている。このあたりも信仰というものがないと理解が難しい。物語に真実が宿るということなのか? 新約聖書とはイエスと出会った人々の真実の告白だそうだ。

若松さんも確かクリスチャンだった筈だけど、事実の奥に真実を感じる、それが日常なのではないかと推察されている。だけどどんなに事実を積み上げても事態は打開せず、そこには生活よりも人生の苦しみを感じるかもしれないと。人には、事実を肉声で語ることでそれを真実へと変容し得る力があると若松さん。

事実は理解の対象だけど、真実は理解を超えて人を動かすもの。政治でも組織でも、リーダーの口から事実のみが語られ、何かを賭けるように語られた真実の言葉にふれる機会が少なくなったと。紅麹の件も事実と真実をしっかりと聞き分けたい。

若松さんが遠藤周作と出会ったのは高校生になって読書に強い関心を抱くようになってから。テレビもなかったらしいので至極当然に活字に憩いを求めていったのだろう。お父上も相当な読書家でその姿は今でも目に焼き付いていると述べられている。

哲学者・井筒俊彦があるときから「コトバ」という表記を用いるようになった。非言語的なものを含む意味の顕れを指すと。お父上が示す後ろ姿が語る沈黙のコトバがあって具体的に発した言葉よりも強く印象的であると。

新たなステップに踏み込んだ若い世代にも、事実の積み重ねだけでなく、真実を追い求める姿勢というか感情というか、平たく言えば気持ちを持ち続けて欲しい。特に新しい環境に対してハレーションを起こす時期・時間は必ず来ると思うので、そんな時にふと考えてみてはどうだろうかと。

生活の中心では言葉が中心を占めているけど、人生においてはコトバこそがその意味を告げ知らせるのではないか、と締めくくられている。少々この記事はキリスト教的な思考が必要なのだろうか、とも思いながらも読んでしまった。遠藤周作の著書も結構読んでいるので、概ね雰囲気は理解できているけど、この文章は何度でも振り返りたいと思わせるものだ。


 


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