自分史的なクリッピング史料

最近は、気分を変えてというか、暑い日も多いので比較的早朝に犬の散歩に出かける。でも先般は、他の犬に鼻クンクンする行為で、黒いボストンテリアに思い切り鼻先を噛まれて出血。かかりつけの病院も直ぐそこにあったので、急遽病院へ。縫うほどの深い傷ではなかったけど、抗生物質をもらって帰宅し、傷は癒えたものの、しっかり鼻先に2本線の傷痕は残った。愛犬はそんなことも気にせずいたって元気。犬の社会性を早くから身につけさせたいと思う気持ちと、やはり成犬との触れ合いには未だ要注意だなぁと。とにかく興味津々の我が愛犬はひたすら、犬や人に近づいてナメナメを繰り返す。前の犬とは大違い。前の犬は決して人にも犬にも近づこうとしなかったので、おとなしくて、散歩もしやすい犬だったけど、今の犬はひたすらリードをぐいぐい引っ張って、今にも勝手に走りだそうとする。男の子と女の子の違いもあるのだろうか。とにかく厄介な相棒である。

一方で世間では、わけのわからない政党の挙行に逮捕という結末。なんとも政治の世界も厄介さが混雑している。そんな中で新聞の中の「惜別」というトピックス(記事)によく目が行く。この人はどんな影響を与えたのだろうか。その内容が誰であれ注意がいくことが多い。

2024年5月16日 惜別 ピアニスト マウリツィオ・ポリーニさん
未来探り続けた 音の大建築家

このピアニストの技術は既に10代半ばにして完成の域にあった、というリードで始まる。音楽評論家の吉田秀和さんは現代きっての音の大建築家であると評していて、「その演奏は苦渋を浄福へと転化させる」と書いた。何とも哲学的な表現でもある。1960年、18歳でショパン国際ピアノコンクールで優勝し、審査委員長のルービンシュタインが誰よりもうまいとその完成度は異次元で脱帽だったと。

その後10年近く、表舞台から離れて自己研鑽の日々へ。一度頂点に立つと自己の中で哲学的な自問自答が展開されていくのだろうか。芸術と商業主義が拮抗するこれからの時代をどう生きるか。演奏家は楽譜のしもべであり、自身のエゴに作曲家を利用してはならないという気持ちに至ったとある。

次の段落では、あらゆる時代の曲に取り組むべきだと現代音楽に特化したコンクールを企画とある。2002年には東京で約1か月間、ルネサンスから現代までをわたり、知られざる作品に光を当てる大プロジェクトを敢行したと記されている。これについて、「同時代の作曲家の『声』を聴衆に伝えるのは演奏家の義務だと思う」とコメントされているあたり、その取り組みには大きな意義があったものと推察される。もちろんそうした音楽家は他にもいくらでもいるだろうと。今でなければ表現できない何かを表現している、というコメントも。同じ時代を生きているはずの天才を埋もれさせることなく、表に登場させるという取り組み。

そして次には古今東西のピアニストについての著作がある音楽学者の岡田さんのコメントが付されている。とても印象的な表現。「イタリア伝統の知性と貴族の品位、そして最先端の工業デザインのような現代的感性と、超高速のフェラーリの機能性を兼ね備えていた。はるか先まで見通すかのような、近未来的な演奏だった」と。プロフェッショナルな人の惜別の辞でこのような表現を与えられた人物像は読む人の注意をやはりひくのだろうと思う。

でもいつも思うのは、当然人間だから「暗」の部分もあるのだろうけど、結果的には、それらを凌駕するだけの功績があった人は何とも羨ましい限りでもある。それは全て全身に善をまとうことはできないだろうから、完璧な人間像などは想定しないけれど、やはりバランスというものがあるのだろうかと思う。

ポリーニのブランドは揺るがぬもの。過去の完璧な演奏を問うと、自分はその時より進化していると回答しているポリーニの言葉に何とも言えない感覚を覚える。そう、人間とは終生、進化するものなのだということなのだろうか。

最後には、「21世紀の音楽界の光と影を独りで背負い、老境に至っても葛藤から逃げず、完璧さへの呪縛を振り払うかのように未来系の探求者であり続けた」で結ばれている。芸術家の一生とはこれみよがしというばかりに非常に感銘深いことばが連なる。芸術家とは何か?ひたすらコマーシャルの世界にいた自分は、特に芸術家や音楽家のそれまでの人生を想像することにやたらと興味がひかれてしまうのは歳をとったせいだろうか、それとも人生の終焉により近づく時期にこうした「惜別」の記事を読むことで感傷にひたっているのだろうか。まあ、とにかくこうした記事のテキストにも思いを馳せることは意味のないことではないと思いつつ。


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