自分史的なクリッピング史料

昨日、ちょっと目を引く記事が掲載された。今は乱読中であるけど、外山滋比古の『新聞大学』という文庫本を再読している最中。外山さんは、新聞読みこそ、学費ゼロ、毎日自宅でできる最良のテキストだと喝破されていて、その一つひとつの章を丁寧に読み漁っている。

2024年1月22日 文化時評 The STYLE / Culture 「科学的」を求める社会

筆者は昨年末に東京電力福島第一原発を訪れ、その際に施設内に海洋生物飼育試験施設があることを知った。そこでは福島名物のヒラメが飼われている。処理水の海洋放出については科学的根拠を巡り国内外で話題となり、外交問題にも発展していることは周知の事実。ヒラメの飼育は「前向き比較試験」と捉えられ、エビデンスレベルの高い研究で、処理水の安全性を立証しようという試み。IAEAのトップも同施設を視察したらしい。

コロナ禍においても、ワクチン効果の是非や、分類変更の是非など、科学的根拠が議論の的になったことは記憶に新しい。自分もワクチンはもう6回打っている。でも実は当初、志村けんさんが亡くなったと同時期にコロナに罹患した。高熱は発したものの、4日目には熱も下がり、8日目には退院できた。当初、医者から「意識のあるうちにお聞きしますが、もしもの時には人工心肺を装着することに同意しますね」と言われ、Noとは言えない雰囲気を感じたし、CTでは肺炎になりかかっているとも言われたので、そうなったら仕方のない処置だと割り切っていた。何せ情報も少なかったし。でもCTでその兆候があらわれていると言われれば仕方ないか、と。

さて科学的とは何なのだろうか? エビデンスという訳が付されることも多いけど、正確、厳密、客観的、普遍的というような肯定的な意味もあという東大の先生のコメント。今じゃ「科学的人事」なるワードもあるとかで、仕事ぶりを数値化し、情実人事を排除できる手法なのだとか・・・。そんな簡単なものではないと思うけど、長い期間かけて成果に達する場合もあるだろうし、数値化、定量化はついつい利益貢献などに直結し、優先されやすいことも事実。

科学的エビデンスが示されたとしてもそれを受け取った人はどのような評価ができるのだろうか。「処理水」なのか「汚染水」なのか表現は別として、何を示せば、何を受け取れば、その双方の評価を合致させることができるのだろうか。エビデンスが身近になったのは、1990年代に登場した「エビデンス・ベースド・メディスン」、即ち科学的根拠に基づく医療という概念かららしい。今もかかりつけの病院に通っているが、検査結果はコピーをアウトプットして数値化されたものをくれるし、負けず劣らずこれもクリッピングしている。投薬の履歴はお薬手帳にシールで貼られているし、普段からエビデンスで囲まれている。

医師たちもこうした科学的根拠に準じながら、患者への説明と納得感を共有しているのかと思うと以前とは随分と変わったなぁと感じる。人は誰しも他人の言葉よりも数字やデータに大きく依存することが分かっているという。こうした事実に医療の現場で人間味が薄れてきたという記述も。確かにそうかもしれない。でも患者からその数値が何を意味するのか等々を医師との会話のやり取りをするしかないと思い、いつも通院時の時には質問もするようにしている。

21世紀においては、生成AIの登場など大きくデジタル・シフトが進んでいる。今では自然科学のみならず、心理学、社会学、行動経済学など、統計という数値で因果関係を探る術が相当に発達しているという雰囲気も十分に感じる。再現性が危ぶまれる中、科学を科学する研究、一方でメタサイエンスが脚光を浴びているともいう。何じゃそりゃ?と思う。巷で騒がれる科学的根拠を決定的とは思わずに、あくまでもその根拠には幅があるのだからとうがった目を持ち合わせることが肝要と。

今の世の中、不確実性とリスクは高まるばかり。なぜなら科学の進展スピードには到底追いつけないし、その結果情報は洪水状態。ますます太海に投げ出されてしまい、真実の浮き輪には手が届かない。だからと言って安直に科学的根拠にただただ飛びつくのは危険だと結んでいる。

確かに、科学的かどうかは別にして、意思に根拠を持つということは大事。仮に何となくと思ったとしてもその何となくが意思なんだろうと思えるかどうかとも思った。

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