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海の毛虫

 男は海崖から、当てもなく視界を彷徨わせていた。岩礁に打ちつける波の飛沫や、遥か彼方の水平線などを、ただぼうっと眺めていた。
 そんな折に、直ぐ下の海岸で、細長く、無数の毛に覆われた一匹の生物が光りながら跳ね、その後ゆらめくように泳いでどこかへ消えてしまうのを男は見た。初めて見た生き物であったし、なにしろその儚いふるまいがあまりに美しかったものだから、もっと近くで見ようと思い、砂浜まで降りて探すことにした。

 砂浜に降りると、そこには少年がいた。見たところ十になるかならないかといったところで、所在なさげに砂山をこさえていた。男は少年に尋ねた。
「おうい、ここらで毛虫みたいなものを見なかったかい?」
「毛虫?毛虫ならちょっと戻った森のところにうじゃうじゃいるけど、このあたりじゃ見かけることはないよ」
「普通の毛虫じゃないんだ。海を泳ぐ毛虫なんだよ。僕はそこの上のところから海を見ていたんだけど、そいつがあんまり綺麗だったんで降りてきたんだ。見ていないかい?」
「ぼくは砂遊びをしていたからな。あんまり綺麗って、どんな毛虫なの。毛虫なんて気持ち悪いじゃないか」
「普通の毛虫より長くて、透明なんだ。そいつが細い毛をきらきら光らせて跳ねるのを見たんだ。まだここらにいると思うんだがね」
「ぼくはずっとこの砂浜にいるけど、そんなものは見てないよ。波と波のぶつかる白さとでも見間違えたんじゃあないの」
 男は多少むきになった様子で言った。
「いや、確かにいたんだ。綺麗にきらめく海の毛虫を見たんだよ。君にも見せてやりたいから、探すことにしよう」
「ぼくはいいよ。毛虫なんてみんな気持ち悪い。まあ、砂遊びなんてとっくに飽きてたところだから、ここから見張りくらいはしようかな」
「ありがたい。とにかく綺麗に光るから直ぐわかるはずだ。僕は海に入って探してくる」
 男はそう言うと、服の濡れるのも気にせぬまま波打ち際をどんどんと進んでいき、そこらじゅうに目を配りながら毛虫を探し始めた。少年は、あんなにざぶざぶと音を立てちゃ毛虫も何も寄って来ないんじゃないか、と思ったが、特に何も言わずに見ていることにした。

 夕暮れ近くになると、流石に男も疲れてきた様子で、少年の側に座り込み、話し始めた。
「いや、見つからないものだね。本当に、是非見せてやりたいんだけど」
「ぼくもずっと海を見ていたけど、それらしいものなんてなにも見えなかったよ。やっぱり何かの間違いだったんじゃない」
「いや、僕は確かに見たんだ。あの崖の上の方からだったけど、そのきらめきだけは克明に見えた。間違いようがないくらいにね」
「ふうんーーー。いいんだけどさ、服をそんなに濡らして、着替えはあるわけ」
「ああ、いや、大丈夫なんだ。少し冷えるけどね。それより君はずっとここにいるけど、親御さんは心配しないのかい」
「うん。待っていろ、と言われたし、それにーーー。あっ」
 水の跳ねる音がした。少年が咄嗟に指を指した先には、確かにきらめく生き物がいた。波に揉まれ跳ねて、空と海から夕陽の光を一身に受けて、その細かい毛のひとつひとつを暖かくプリズムのように輝かせていた。
 男と少年は、その跳ねる様子を、まるで永遠のように思えるほど凝視していた。毛虫は水面に落ちると、またたゆたうようにどこかへと消えてしまった。
「ほらな、いただろう」
「うん、いたね」
 幾許かの時を置いて一言ずつ交わした後、ふたりはもはや毛虫を探すでもなく、夕日の沈みゆく海をただしげしげと眺めていた。

 やがて男が立ち上がり、濡れたズボンの砂を払いながら言った。
「さて、僕は崖の上のところに戻るとするよ。荷物やら何やら、置きっぱなしなんだ。君はまだ待つのかい」
「うん。船が乗りつけにくる手筈なんだ。もうそんなに遠くもないはずさ」
「そうかーーー。毛虫は綺麗だったろう」
「うん。また見られたらいいな」
「それならよかった」
 そう言い残し、男はもうすっかり暗くなった中を海崖へと登って行った。さて、どこか着替えを都合できる所があるかな、などと考えながら。

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