見出し画像

源氏物語の輪読会のこと

月に一度、源氏物語のオンライン輪読会を開いています。
予習も下読みも必要なく、ただ集まって順に音読し、自由に感想を語り合おうという気楽な会です。ありがたいことに、先頃第七回を迎え、「空蝉」の巻まで進みました。

テキストは少し背伸びをして、谷崎潤一郎の現代語訳(新々訳)を選びました。紫式部の原文を大切にした、とても美しい訳文ですが、継ぎ目のない流麗な長文で、主語も入らないので少し難しいです。私は若い頃に円地文子の現代語訳を通読したのですが、この潤一郎訳を一人で読むのは困難だろうと感じています。でも、輪読なら大丈夫。みんなで音読すると、すっと心に入ってくるし、難しいところは誰かが教えてくれます。誰もがわからなければ、みんなで調べます。そうこうしているうちに、何となく「こういうことかな」と掴めてくるのです。自分が見落としてしまった素敵なところや面白いところも、仲間の誰かの感想によって気づくことができます。そしてみんなで読んだ思い出が、一人一人の声と共に胸に残ります。輪読って本当に素敵です。

私は主催という立場ではあるものの、源氏物語にさほど詳しいわけではなく、ただ自分なりに好きで、長く親しんでいるだけなのですが、参加者の中には、いくつかの現代語訳を何度も読まれている”通”の方もいらっしゃいます。また、漫画版を愛読されてきた方や、この会で初めて源氏物語に触れるという方も参加してくださいます。源氏物語との関係がそれぞれ違うので、いろいろな感想や意見が聞けてとても楽しいです。そして、誰かの”初源氏”に立ち会えるのはとても幸せなこと。もし私が、その方と源氏物語との出会いに少しでも寄与できたのであれば、なんと光栄なことでしょうか。

第一回目の時でしたか、参加者の一人が「しじみさんは源氏物語のどんなところが好きなの?」と訊いてくださいました。そのときは、思いつくままに「生き方が限られている時代に、女性たちがそれぞれの重荷を背負いながら、懸命に自分の人生を生きようとするところでしょうか」というようなことをお話ししました。そしてもう一つ、日々思うことは、言葉が隅々まで非常に美しいということです。
例えば、先日の会で読んだ「帚木」の巻に、こういう文章があります。

いと、かく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれるふるさとながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、をかしうもやあらまし。
(潤一郎訳:あゝ、こんな風に身分がきまってしまわないで、昔のように、亡き親たちの名残をとどめた家屋敷にいて、たまさかのおいでをお待ち申し上げるのであったら、楽しかったであろうものを)

これは読者から”空蝉”という通称で呼ばれる人の、心の声なのですが、特に有名な場面というわけでもない、こういう何気ないところの文章も柔らかくて趣があって、つい何度も音読してしまう魅力があります。

ちなみに空蝉はこのとき二十歳前後。元は上流貴族の娘で、宮仕えの話もあったのですが、父親の死によりその希望も潰え、親子ほど年の違う受領の伊予介に後妻として嫁いだ女性です。伊予介は若い空蝉を愛し大切にしていましたが、空蝉自身は夫を愛することができず、不本意な気持ちで暮らしていました。そこへ十七歳の光り輝く源氏の君が方違えで訪れ、空蝉に興味を持って強引に関係を持ってしまうのです。

その一夜の後、光源氏は空蝉の弟・小君を通して何度も手紙を寄越してくるのですが、空蝉は自分が人妻であることや、光源氏とはあまりに身分が違うことなどから、断固として拒絶します。真面目で、自身の尊厳を大切にする人柄なのです。でも本心ではこのように「かく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれるふるさとながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば...」とも思っていたのです。空蝉の源氏への複雑な気持ち、亡くなった親たちへの思い、自由に生きられない時代の苦しさが、美しい古文で伝わってきます...

そんなわけで、七回目にしてようやく「空蝉」の巻まで読み進んだ輪読会ですが、このペースでいくと五十四帖読了までにざっと十年はかかりそうです。大変な長旅です。
十年後、私と、大切な旅の仲間たちは、どんな気持ちで最終巻の「夢浮橋」を渡っているのでしょう。
今から十年前に、今日のことを少しも予想できなかったのですから、これから十年後のこともわかるはずがありません。
でもきっと、源氏物語は、何らかのかたちでこの世にあって、私たちの手の届くところにいてくれる、それだけは想像できるのです。この物語は、千年前からそのようにして、数多の人々の人生と共にあり続けてくれたのですから。

また近いうちに、輪読会のことを書きたいと思います。
読んでくださりありがとうございます。

しじみ

#読書会
#輪読会
#源氏物語

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?