からくりを明らかにするかしないか問題

久しぶりになにも予定がない日が来て1日中スマホを見てしまった。でもそのおかげで偶然気づけたことがあって、まあ気づけたというか、灯台もと暗しというか、わかりきったことではあるんだけど、もっとはっきり鮮明になって、もう少し掘り進めば自分の核を完全に理解してコントロールできる気がするんだ。ただ、怖いのが、完全に明らかになったときに、その自分の核というものが、明らかになってないときに比べて弱くなったり、薄くなったり、最悪の場合、完全に自分の中から消滅してしまう可能性があるということで、たとえばそれは驚くべきようなマジックがあったとして、そのタネがわかったときに再び同じリアクションが取れるのかみたいな話だったりする。たとえばそれは秘密主義者の人間が公にされた秘密に対して同じ熱量で興味を抱けるかみたいな話だったりする。つまり、今自分の中で、自分の核は少なくとも完全にはタネがわからないし、明らかになってない部分があるということで、これが全て明るみに出てしまったら、自分が全てを理解してしまったら、その時自分はこれまでの自分自身に、冷めて、飽きて、変わってしまうのではないかということで、もしもそんなことが起きてしまったら、本当に元も子もないし、また0からのやり直しということになってしまうので、自分の核心に迫り触れるのか、それともある程度の距離をとったまま、真実が見えているけれど気づかないふりに徹するのか、慎重に判断しなければならない。そのためには、自分が自分の本質を完全に理解することとマジックのタネが明らかになることの相違点を見つけなければいけないし、自分にとって自分の本質が無意識に自分が宿している秘密ではないと証明しなければならない。まあでっかい括りで言えば秘密が明らかになることの中にマジックのタネが分かるということは含まれているので、自分の核が自分にとって秘密であるのか、それとも、すでに明らかになっていることなのか、確かめなければならない。自分の核は完全にはまだ解き明かされていないので自分を完璧に理解してしまうことは秘密が明らかになるのと同じだと言える。つまり、自分の核を完全に見える形にしてしまってはダメだということになる。じゃあ次は明らかになった秘密に対して興味を持てなくなるという性質がすべての秘密に対して当てはまるのか検討していきたいと思う。その前に1つ気になることが生まれた。この秘密主義的な自分の性質はどこから来たものなのかということだ。これは不変であり元来のものなのか、それとも、この性質を守る城壁は崩れる可能性があるのか。よくよく考えてみれば、秘密主義であることは自分のなかで自己防衛的役割を果たしているので自分の核となる部分とは一切関係ない。別の起因により生じたものだ。核となる部分は環境や遺伝によって形成されてきたことが自分のなかでは自明だが、秘密主義であることは、そういった初期条件とは無関係なので、自分の核となる部分が完全に明らかになったところで、秘密主義であることをやめさえすればまったく問題はない。つまり、今からするべきことは、核を完全に理解することと秘密主義者をやめることだ。核を完全に理解してしまえば、エネルギーの作り方がわかり、無限に自分がやりたいことに情熱を注げられる。あとはひたすらエネルギーを創作に変換する機械として自分をこき使うまで。と言っても、秘密は誰もが抱えるものであり、もちろん俺にも、その権利がある。本当に、どっちやねん、である。


小さい頃からお金をもらうことが好きでした