さようなら絵梨

ネタバレ含みます。

思考の流れ。

題材は映画か、ファイアパンチ以来だな。なんだ、女の子が現れた。そう、いつだって藤本タツキは突然女の子を出してくる。どこかで怪しげで含みのある少女。こんな展開人生にあったらとクリエイターなら誰もが憧れる。

いや、憧れるのは偽物だけ。僕はそう踏んでいる。創作に自信のないやつはなおさら、自信があるやつでもきっと心の奥底では誰かの助けを求めている。

しかし本物は周りなんて関係ない。「ああ、いたんだ。今、作ってるからどっか行ってくれ話はあとで聞くから」と言って、あとで話も聞かずに永遠に作り続けるようなやつ。それが本物。僕はまだ弱いから、その段階に行けてない。

このシチュエーションに「ああ、なんでわかるんだろう僕たちの願望が。こういう支えてくれるような人が周りにいてほしいことを」みたいな感動があって、この時点でうるっときてしまった。僕のなかでこの物語のピークはここで終わっていた。

役とかではなく、絵梨は本当に吸血鬼かもしれない、そんな想いを内に秘めながら話を読み進めていくと案の定そうで、期待を越えてこなかった。でも、そんなところ、ただの展開というか、まあ予想通りでも物語の面白さはほとんど損なわれない。

最後は唐突な爆発で苦笑。いや、唐突と言うよりこの終わらせ方が必然だったのかもしれない。うんこボケと爆発オチみたいな、しょうもない笑わせ方してくる感じ、ふざけてる感じが「全部所詮フィクションなんだよ」って生真面目なやつに警告しているようだった。タイトルの「さよなら絵梨」も "さよおなら" ってことなのかな。最後の爆発もおならのガスで爆発したとか。「そんなわけあるか!」みんなの声が揃って聞こえた。

読み終わって感じたこと「俺はルックバックよりこっちの方が好きだった」。どちらも創作に触れる話だけど、さよなら絵梨の方が作り手側に寄り添う作品だったと思う。だからチェンソーマンよりファイアパンチの方が好きだし。

読み終わって考えたこと。「俺は今回より前の作品の方が好きだった」って言うと、もう一人の自分が「ああ、いるよな、前の方が良かったって言うやつ」というスタンスで嫌みったらしく小突いてくる。その時「お前みたいなやつこそよくいるけどな」と思う。

これ全部自分の中での会話だけど、「いるよなそういうやつ」みたいな思想って、マジでなんなの?いるから何?なんで彼らはそれが悪いかのように含みを持たせて言うの?そしてなんでそれがそもそも悪い視点みたいになってるの?

答えかどうかわからないけど、自分なりの結論は出しておく。「こういうやついるよな」ってのは愚痴を言う時に相手に自分の中にある嫌な人間像について共感してもらいたいから言うことが多い。ところが、違うパターンもあって、「よくいるやつだよな」っていう意味で言われていることもある。僕なんかは後者の使い方をしていることが多い。それはなんでかって言うと僕は非常に没個性的であることを恐れていて、かつ、悪いことと見なしている。ひどく言えば、下に見ている。だから、個性的ではない典型的な部類に当てはまる人を見ると「こういうやつ(よく)いるよな」と悪い意味で思ってしまう。没個性への異常なまでの拒絶が僕にそのフレーズを言わせているのかもしれない。

もう1つ考えたこと。Twitterを見ていると多くの人が感想を呟いていて、やっぱり良い作品って語りたくなるものなんだろうなと。ただ、僕たちは藤本タツキに語らされているわけで、自分もその中の1人かと思うと非常に悔しい。しかも自分と同じような意見がゴミのように転がっていた。まんまと語らされた。先ほどの話から分かるように僕はオンリーワンでありたいから、埋もれることが嫌いだしとても悲しい。さよなら絵梨を読んで自分も所詮群衆の1人なんだと自覚させられた。けれども、もがいてもがいてなんとかそこから抜け出したい気持ちにもちょっとだけ火がついた。

文章を見返して思ったのが、多分、自分は自意識が高い。結局、自分自分、ってなっている。最後も自分への考察で締めてるし。しょうもない。ここを抜け出すには何が足りないか、考えるのは、別の機会。

小さい頃からお金をもらうことが好きでした