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「美しさ」に関する考察 Vol.1...Matsuya

私たちが「美しい」と感じるものには何があるでしょうか。
例えば、仕事終わりに歩いていて、ふと見上げた夕日の綺麗さに心奪われてぼーっと眺めるときや、人間関係について悩んでいる人が、何気なく読んだ詩集の一節に心を打たれてジーンとするときなど、日々の生活の中でも、"美しい"ものに出会う経験というのは意識していないだけで、たくさんあるのだろうと思われます。

私が作品を制作しているとき、よく聞く感想として、「この作品のどこがいいのかわからない」「絵なんか見てきたことないからさっぱり」などのようなものが挙げられます。

もちろん、それが「作品」であるとき、その作品を鑑賞するなら、その作家のこれまでの経歴や人生観、はたまたその作家の生きてきた時代背景や、それを見ている自身を取り囲む世界とその作家の世界の情勢との相違、またそのときの気持ちなど、様々な点が影響し合い、ひとつの鑑賞体験として生起しているのだと思いますし、その連関の中で語られるものが「作品」だと呼ばれるのだと思います。

数年前までは、Aという絵を見ても感動することはなかった人が、その作家の画集を見たり、そこに描いてある作家の経歴やエピソードを見て(例えば若いときに全然売れなくて苦労していた話)、先週先輩から怒られていた自分と重ね合わせ、「あぁ、この人もこのとき辛かったんだろうなぁ。この絵の全体的な雰囲気はすごく暗いんだけど、真ん中にある雑草の花がとても鮮やかに描いてあって、これは"苦悩の中でも希望を捨てないでいよう"っていっているように見えるなぁ」と考えることがあると思います。

このように、美しさというものは一様のものではなく、そのときの自身の気持ちや状況に大きく左右されるものであることがわかります。
ただ、他にも「美しい」という様態を取りうる事象があるだろうということが予測できます。

ここで、もうひとつ別の美しさの容態について考えてみたいと思います。例えば生物の種が違うのに、その特徴的な器官と同じようなものを持っていたり、その形が似ることを「収斂進化」といいます。
例えば、カマキリとミズカマキリが挙げられます。ミズカマキリはカメムシの仲間で、カマキリとは全然違う生物種に当たるのですが、どちらも大きな鎌を持っており、これはどちらも他の昆虫を捕食するのに役立つ器官なのです。

このような例は先ほどまでの「美術作品」の話とは少し違いますが、ある種の外圧の中では、それがたとえ別様のものであっても、何かひとつの「絶対的なカタチ」におさまろうしているように見えること、というのがあるように感じます。

もう少し一般化して言えば、どんな人がその作品を見ても、ある一定の出力で「美しい」と感じるものがあるのだろうということです。

次回の記事では、最初に話した、そのときの鑑賞者の心情や状況によって変わってくるような相対的な美を「内在美」、対してどんな人が見ても一定の美しさを内包するものとして見出すことのできる、絶対的な美を「外在美」として、もう少し深掘りできたらいいなと考えています。


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