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「常識」を疑う

『佐高信の昭和史』 佐高 信・著 / 角川ソフィア文庫(H30年8月初版)

タイトルにした「常識を疑う」という文句は、本書の帯にある言葉で、巻末に解説を寄せている望月衣塑子氏の文中から抜き出されたものです。

本書は、いわば「佐高信」視点から見る昭和史というカタチの本ですが、よくある、時系列で何が起こったかという解説の羅列ではなく、それに至った背景や人の動きを著者の視点で丹念に鋭く追って明かして行きます。

ここで大事な部分は、誰の何のどんなことを信用すべきなのかを読み手に教えてくれることです。逆に言えば、誰のどのような言説には注意深く疑ってかからなければならないかを、かつてのそれほど遠くない歴史を紐解いて示唆してくれています。代表的な対比で言えば、太平洋戦争時の石原莞爾と石橋湛山の対比です。

また本書に出てくる伊丹万作の「だまされる」ということの内容、それを紹介しながら「だまされることの責任」を我々に投げかけ注意を促す著者の言説には、新型コロナという一事象に振り回された(今も、またこれからも)市井の人々には、大切なことを問う内容になっていると思います。

この「だまされる」ということについて、私は以前から著者の本を読んで考えさせられていましたから、この数年のコロナの時においても、いろいろなことに疑いを持ち、誰の何を信用したらいいかを自分なりに問う作業を行ってきました。

かつての戦争で我が国が失敗した負の歴史と同じようなことが、この今の時代にもまた繰り返されています。

すなわち、権力者が都合の良い論理を持ち出し、ウソを用いながらその意図を実行していく。新聞や文化(歌や書)の中で権力に迎合する者がそのウソを補完し、反する者には抑圧を加え、巧妙な仕組みでもって人々に対する支配の構図を作るわけです。

そして悲劇的なことは、破滅に至ったとしても、誰もその責任を取らない。本書では、戦後に「切腹して自害した者」についてはともかく、のうのうとその後も生きた者に厳しい視線を向けています。著者が、すでに亡くなった者についても批判の手を緩めないのは、責任を取らなかった者については、どこまでも免責されることはないという強い意思の現れであり、そのような怒りがなければ、また人の命や普遍的な正義が失われることを危惧するからこその態度なのだと思います。

私たちが知り、認識しなければならないのは、かつてもそのような過ちの歴史がありながら、また同じことを繰り返してしまう愚かさに自覚的になるということです。新型コロナの一連のこの国の有り様がそうですし、「マイナンバーカード」についても同じことか言えます。政府や権力者のいい加減さが、ここのところ際立ってひどくなっています。声が届かないのではなく、そんな「代表者」を選んでいる、もしくはそもそも選ぶことさえ辞退している選挙民たる一人一人の問題ではないでしょうか。

「だまされないように」なるために、「だまされることの責任」を回避するために、ぜひ本書を読んで下さい。1000円ほどで、大切な持つべき視点を養えると思います。

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