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「黄昏(たそがれ)」って、郷愁をそそる言葉だが、昔は恐い時刻だった

「たそがれ」という言葉には郷愁を感じます。

子供の頃であれば遊び友達の顔がよく見えなくなる頃で、まさに「たそがれ」の語源と言われる「誰そ彼(たれそかれ)」という状態をであったことを思い出します。

「誰そ彼」は古くは万葉集で「誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」と使われていたようですが、最近では江戸時代まで「誰そ彼」は使われていたらしいです。

それで、この人の顔が判別しにくくなる夕暮れ時の「誰そ彼」が「たそがれ」と転じたらしい(とする説が多く流布しています)。

昔は今のように電灯がありませんでしたので、夕暮れ時は本当に暗かったのでしょう。

でもなぜ「たそがれ」は漢字で「黄昏」と表記するのでしょうか?

「黄昏」という字面から「黄泉(よみ)」を連想する人も多いでしょう。少なくとも私はすぐに連想してしまいます。

それで調べて見たところ、「黄昏」も「黄泉」も別に黄色というカラーを表しているのではなく、五行思想に由来しています。

「五行思想」とは、万物は「木・火・土・金・水」の5種類の元素からなるという古代中国の思想ですね。この元素はそれぞれ色で象徴されていたのです。

すなわち、木は青、火は赤、土は黄、金は白、水は黒です。なんとなく分かりますよね。いかにも古代の素朴な発想です。

「黄泉」は土の下の世界だから「黄」が使われたのでしょう。そして「黄昏」はおそらく、太陽が地平線に(土である地面の下に)沈むことから「黄」が使われたのではないかと私は想像しています。

ちなみに「黄泉」を「よみ」と読むのは「夜見」からとの説もどこかで読んだ記憶があります。

それで、実は「黄昏」は漢語のずばり「黄昏(こうこん)」に「たそがれ」という大和言葉を当てたらしいのです。

漢語の「黄昏」は、日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を示します。つなり夕刻ですね。「昏(こん)」はこの一字だけで「ひぐれ、暗い、たそがれ」などの意味を持っています。

ところで「たそがれ」にはたくさんの類語があります。

逢魔が時、日の暮れ、夕やみ、入り方、夕まぐれ、薄暮、灯点し頃、暮合い、火点し頃、日暮れ、夕暮れ、王莽が時……」

まだまだあるのですが、この辺りで止めておきます。

さて、この類語の中で気になったのが「逢魔が時」と「王莽が時」。読み方はほぼ同じで「おうまがとき・おおまがとき」です。

電灯のなかった昔の「たそがれ」は、「誰そ彼」かと思ってよく見ると魔物だった、という怖さがありますね。

それで魔物に逢う時で「逢魔が時」ですね。

ところが「逢魔が時」は元々「大禍時」だったとする説もあるそうです。「禍(まが)」は禍(わざわい)のことですね。

つまり、「たそがれ」時はモノがよく見えないので、トラブルことが多いと。トラブルが多い時だから、「大禍時」と呼んだらしいのです。

となると、読み方の区切りがちょっとずれてきます。「大禍時」なら「おお・まが・どき」ですが、「逢魔が時」なら「おう・ま・が・とき」となりますね。

そしてもう一つの「王莽が時」の「王莽」とな何でしょう。こちらの読み方も「おおまがとき」です。

「王莽(おうもう)」は、中国の前漢末期の人で、「新」という国の建設者です。ところが王莽は前漢の王位継承者である幼い平帝を擁立しておきながら結局は平帝を毒殺して自分が皇帝に即位して「新」王朝を立てたのです。

すると漢王室の流れをくむ劉秀などが挙兵したため王莽は自殺に追い込まれました。そして劉秀が光武帝に即位して漢王朝を復興したのが後漢です。

この歴史から、王莽の時代はつかの間の黄昏時のような時代であったとして、「黄昏」時を示す「王莽が時」という事がが使われ出したという説があります。

「たそがれ」を調べていたら、ちょっと長くなってしまいましたが、なかなかに味わい深い言葉だなと改めて思った次第です。

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