著書紹介「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」髙田重孝著

加賀山隼人正興長之息女墓碑 小笠原玄也の妻・みやの墓碑 熊本市花岡山  撮影・原田譲治
加賀山隼人正興長之息女墓碑 全体 撮影・原田譲治
香春町中津原浦松にある殉教者・加賀山隼人正興長(右側)加賀山半左衛門(左側)の墓碑
加賀山半左衛門・息子ディエゴ(4歳)・殉教地・大分県日出町・殉教公園


日出処刑場跡地・日出町殉教公園の鎮魂碑

髙田重孝著作集第1巻「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」
400年前、1619年10月、小倉で殉教した細川藩家老、加賀山隼人の信仰とその生き方は、今を生きる我々の模範であり、神と人々にどのように仕えなくてはならないかを教えてくれている。385年前、1635年12月に熊本において殉教した小笠原玄也一家4名が、15通の遺書を残している。この遺書は1830年まで195年間熊本城内西の出丸坤櫓の11番の宗門に関する箱の中に保管されていた。1830年藩校時習館の安田貞方が厳重に保管されていた遺書の封を開いて書き写した。その後原文遺書は1877年(明治10)西南の役の際に、熊本城とともに消失した。安田貞方が写しておいた『遺書の写し』が北岡の「御文庫」に保管されて残り、大正12年(1923)上妻博之氏が発見された。この遺書は部分的に訳されてはいたが、遺書全文が読み下し文・現代語にはされていなかった。今回「原文・読み下し文・現代語訳」を付けて1冊の本にまとめた。これにより、玄也とみやがいかに信仰に生き殉教していったかを知ることができる。人間の尊厳や人間の存在そのものまで疑わせるキリシタン禁教の時代に在って、キリスト教の信仰を自分のものとして受け止め、絶対に譲れない神を信じる信仰の自由、それに命を懸けて自分の生き方を神の前に問い続ける姿勢をもって日々を生きた。確立した自己を持ち、人間の生き方、信仰の高貴さや魂の優しさを証する必要があった時、一人の人間として神の前に真摯に生きることを選んだ人達、殉教者からの遺書である。2022年11月

小笠原玄也と加賀山隼人の殉教 表紙 左側原文 加賀山みやの第12遺書

『どんな情の強き者でも命を捨てるほどの得はございません。どんなうつけ者でも、自分の命を捨てる阿呆はございません。ただただ、捨てがたい信仰あってのことでございます。』加賀山みや 第12遺書より

香春町中津原浦松にある加賀山隼人正(左)加賀山半左衛門(右)の墓碑


日出町・加賀山半左衛門・殉教地・日出殉教公園

小笠原玄也の遺書・第1巻   
あとがき

伊東マンショの生涯の研究のなかで、伊東マンショが神父として活躍した一六〇八年の小倉教会赴任から、四年間の小倉教会での活動と宣教を学ぶことは非常に大きな課題である。その中で、特に一六一〇年の長門・周防地方への伝道は、イエズス会報告集には全く記録がなく、当時の記録から、キリシタンである誰がどこにいて、どのような役職についていたのかを調べ上げることで、伊東マンショ神父の長門・周防での伝道先と訪ねた相手が推測された。一六一〇年以後、領主・細川忠興のキリシタンに対する心変わりによる迫害の全ては克明にイエズス会の記録に書かれていて、その中で特に詳しく忠興の寵臣であった加賀山隼人と、小姓だった小笠原玄也については述べられている。伊東マンショとの関りも明確に書かれていて、残されている豊富な記録から当時の小倉教会の置かれた状況が把握された。細川忠興による一六一二年一二月のセスペデス神父の死去後の小倉教会閉鎖による追放の記録と、キリシタンに理解のある忠利の中津教会においての盛大なクリスマスミサ、その後の起こってくる迫害に対処するために信徒組織・コンフラリアの再構築をして、長崎へ退去、その後、長崎のコレジオで静養したのち、一六一三年一一月一三日の死去で伊東マンショの活動は終わっている。

伊東マンショの小倉教会の信徒の中に、加賀山隼人と小笠原玄也がいる。彼らの雄々しい殉教の姿はキリシタン史における輝かしい華であり、四〇〇年の時を超えて現代の我々に、いかにして神のために生きるかを教えている。伊東マンショの生涯の研究の過程で、どうしても、加賀山隼人と小笠原玄也の殉教に言及しなければならない。その中に小笠原玄也の遺書の存在がある。一六三五年一二月二三日に熊本で殉教している玄也と妻みや、一家一五人の殉教はイエズス会の記録には出てこない.すでにキリシタンに対する迫害が厳しい時代になり報告書を書く神父がいなくなった時の殉教であり、唯一細川藩に残されている記録により、殉教(処刑)の様子を知ることができる。玄也とみやが遺書を残していることはわかっていたが、遺書の資料を集めてみて、全てが断片的であり、遺書の原文がどこにあるのか、その読み下し文があるのか、現代語訳があっても、部分的な訳しかないことが分かった。

原文が熊本県立図書館、上妻博之文庫に収められていて、入手が可能なことが分かったので、すぐに取り寄せた。原文を見て、その古文書の存在が大きな壁となり立ちはだかっていることが分かった。今まで何人の研究者がこの原文を読めただろうか?誰がこの原文から読み下し文を作り、現代語を作れたのだろうか?それほど原文を読むことの難しさ、読み下し文を作り、現代語に訳しなおすことの難しさを感じた。安田貞方の自筆の読み方、古文の意味や文章の解釈、『候文』独時の言い回し,『女筆』特有の崩し字等、文章の中には捉えにくい表現もあり、意味不明のところも多かった。三八五年前に書かれた小笠原玄也一家の遺書を読むことは現在の私たちには極めて難しく、そこには古文に関するある程度の知識と候文を読む訓練とが要求された。このことが今まで小笠原玄也の遺書が現代語にされなかった理由であることがよく分かった。

古文書専門家の児玉雅治先生を訪ねて、小笠原玄也の遺書の現代語訳を作りたい旨、相談をした。児玉先生は三八五年前に殉教した玄也が遺書を残していることに非常に驚かれ、その遺書の内容と価値に心動かされて、一緒に現代語訳を作ることになった。週末に半日、遺書を一通ずつ、原文を読み、読み下し文を作り、現代語訳にする作業が半年続いた。遺書を解読していて多くの新しい発見があり、また形見の品に出てくる品名等、現代では使われない物があり、それが何なのかの調査にも、かなりの時間がかかった。約1年の研究を経て、遺書の全容が掴めて、ここにあえて現代語訳を試みた。これにより小笠原玄也の遺書を私たちの言葉で読むことができるようになった。遺書の原文、読み下し文、現代語訳を、ひとつの本に掲載することができた。こののち小笠原玄也の遺書の研究をする人は、この本を基にして、もっと深く、加賀山隼人と小笠原玄也の信仰と殉教、残された遺書、そして彼らの神への奉献について研究して書いていただきたい。完全とは言い難い現代語訳だが、これからの小笠原玄也の遺書の研究の叩き台になればと心から願っている。

二〇一九年一〇月一五日、加賀山隼人が殉教して四〇〇年になる。この記念すべき『殉教四〇〇年顕彰の年』に、加賀山隼人がどのように殉教していったか。またどのように信仰を保っていたのかを明らかにできたことを神様に感謝している。

二〇二〇年一二月二三日、小笠原玄也一家が殉教して、四人の遺書が書かれてから三八五年になる。
 神の前に生きた二人の殉教者の姿を、三八五年前に残されていた小笠原玄也の遺書を通して、お伝えできたことに大きな喜びを感じている。また、小笠原玄也の遺書の原文、読み下し文, 現代語訳の仕事と研究を、神様からの召命としていただけた素晴らしい恵みに対して、神様の前にひざまずき心よりの感謝を捧げている。

『Non nobis Domine sed nomini tuoda gloriam・我らを誇るためではなく、ただ神の御名にのみ栄光を』 中世の職人たちが大聖堂の棟に彫った言葉 

フランスの大聖堂の建築に携わった中世の職人たちが棟に彫った言葉は、また私の信仰と心からの言葉でもある。
髙田重孝

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