小倉教会・セスペデス神父・伊東マンショ神父が指導した救癩(ハンセン氏病)活動と被差別部落に対する貧困援助活動の記録

伊東マンショ神父肖像画・1585年・ドメニコ・ティントレット画
加賀山隼人正興長墓碑・香春町中津原浦松
香春町採銅所・不可思議寺・細川興秋(宗順)第2代目住職で18年間いた寺


豊前・中津城・細川興秋が1602年から1604年まで城主を務めた・大分県観光協会写真提供

小倉教会、セスペデス神父、伊東マンショ神父の指導した救癩(ハンセン氏病)活動と被差別部落民に対する貧困援助活動の記録、


および小笠原玄也、細川興秋が係わったイエズス会年報記録に描かれた被差別部落民の姿  

はじめに
この論稿についてお断りしなければならないことは、現代に於いて「癩病」「穢多」「非人」という文字や言葉は、現在人権擁護の立場から差別用語として使用しないことになっている。それに代わって癩菌の発見者の名前に因んで「ハンセン氏病(ハンセン病)」穢多、非人は「被差別部落の人々」と呼ぶことになっている。この論稿に於いて私があえて「癩病」「穢多」「非人」の文字を使用したのは「イエズス会日本報告書」や細川藩の記録「綿考輯録」等の史料的見地から、当時の記録を重視してそのまま文献に沿って使用した。 

その記録の中で使用されている癩をハンセン氏病、穢多、非人を被差別部落と置き換えて表現することは文字や語感上やその時代におけるこれらの差別された人々の置かれた立場、差別された人々の真相を伝えにくいと判断したからであり、私に差別意識が無いことを御理解いただき、ご了承していただきたい。 

なお、文献の中に特定の地名等が出てくるが、文献は一六〇〇年初期のイエズス会報告であり、活動の報告はキリシタン信徒組織による救癩活動と被差別部落民に対する貧困援助活動の報告であり、四〇〇年後の現在、その地に住まわれておられる方々には一切関係がないことをお断りしておく。 

キリスト教の始まりと救済活動
フランシスコキリスト教フランシスコフランシスコ・ザビエル(Francisco Javier)が初めて日本にキリスト教を伝えたとき、まずキリスト教は貧しい人々に受け入れられた。豊後府内(現大分市)に於いてアルメイダ(Luís de Almeida)が一五五七年(弘治三)頃に病院と孤児院を開いている。当時の報告書には「キリシタンになるものは貧しい病人ばかりであり、有力者、貴族、武士等は、それゆえキリシタンになろうとしない。」との嘆きが書かれている。
『慶長見聞集』第三 『大日本史料』第十二編の九
一六一二年(慶長十七)三月二十一日 

『当将軍の御時代に、又伴天連と云坊主を多渡し、長崎・京・伏見・江戸に寺院を立置、先非人乞食を養い、我宗になす。』(将軍徳川秀忠の代に伴天連が多数渡来して、長崎・京都・伏見・江戸において教会を建築して、まずは非人・乞食を養いキリシタンにした。)
『編年差別史資料集成』第六巻 近世部落編一より 

参考資料一覧
*『近世九州被差別村の成立と展開』松下志朗(明石書店)参照
*『九州被差別部落史研究』松下志朗(明石書店)参照
*『近世九州の差別と周縁民衆』松下志朗(鳥海社)参照
*『ある被差別部落の歴史』盛田嘉徳・岡本良一・森杉夫共著(岩波新書)参照
*『近世初頭、長使(かわた)集団のキリスト教受容』阿南重幸氏の論文 参照
*『江戸期一皮流通と大坂商人』阿南重幸氏の論文 参照
*『切支丹伝道の興廃』姉崎正治著 参照
*『小倉藩の差別政策』北九州同和対策推進協議会参照
*『小倉藩被差別部落の構造』永尾正剛著参照
*『福岡県被差別部落史の諸相』部落解放史研究叢書第一巻(福岡部落史研究会)参照
*『熊本県未解放部落史研究』第一集、第二集、参照

歴史的背景
一五九九年(慶長四年)十月、黒田官兵衛孝高(如水)はセスペデス(Gregorio Céspedes)神父を豊前中津へ招いてイエズス会の修道院・教会を作らせ宣教を開始した。黒田官兵衛孝髙の中津時代にも、既に教会内に病院や、孤児院等が設置されてはいたが、聖職者側の人数も少なく、キリシタンの信徒組織も未発達で、被差別民に対する救済は十分には機能していなかった。 

キリスト教会が病院内に癩病(ハンセン病)患者を受け入れるのは一六〇〇年(慶長五)初期、細川忠興が丹後から豊前へ入封した後である。 

小倉教会の聖職者の増員体制
一六○六年(慶長十一)司教ロドリゲスの『イエズス会年報』には、小倉には二つの教会があり、グレゴリオ・デ・セスペデス(Gregorio Céspedes)神父、イルマン(修士)ジョアン・デ・トーレス、斉藤アンドレ(日本人)の三人が居て、宣教に従事していた。 

一六○七年(慶長十二)二月、カミロ・コンスタンチオ(Camillo di Costanzo)神父が加わり、十月には、イルマン(修士)ディオゴ・ペレイラが来て、五人の宣教師が小倉教会の宣教を担っていた。 

一六○八年(慶長十三)司祭に叙階された伊東マンショ神父(三八歳)がセスペデス(Gregorio Céspedes)神父の伴侶(助け)として小倉に赴任してきた。伊東マンショ神父は教会の柱石である加賀山隼人正、清田朴斎達と共に働き、イエズス会『一六一○年度日本年報』には、『豊前の城下小倉には、十人のイエズス会員がいた。長岡(細川忠興)殿もその子内記(細川忠利)殿も、いたく同情を寄せていた。その所には二千人の受洗があった。』と報告されている。また、忠興の嫡子『細川忠利が中津の教会のすべての費用を負担している。』と述べている。 

 中津城時代の興秋
細川興秋は一六〇二年(慶長七)から一六〇四年(慶長九)の二年間、短いが中津城に藩主としていてキリスト教会を擁護して宣教を推し進めている。中津城下にはレジデンシア(住院・修道院)があり、セスペデス神父と二人の修道士が働いていた。中津城郊外の下毛郡の奉行には豊前のキリシタンの支柱といわれている加賀山隼人正興良(三六歳)がいて、非常に熱心に布教活動をしていた。 

隼人正興良は下毛郡奉行となり、禄も六千石に加増され、重用されて政治の枢機にも参与することとなった。興秋のキリシタン擁護のもと、隼人正とセスペデス神父は信者獲得に全力で取り組んでいる。セスペデス神父は興秋と隼人正の霊的指導司祭であった。毎週捧げられるミサに興秋と隼人正興長家族の敬虔な姿があった。この中には隼人の三人の娘の姿もあり、小笠原玄也の姿もあった。この時期、豊前のキリシタンたちは活発な宣教活動を展開している。

 興秋の深い信仰と隼人正の揺ぎの無い信仰、セスペデス神父の慈悲深い導きにより、郡内六ヵ村は十四名の惣庄屋(手永)に任されているが、その内の十二名の庄屋がキリシタンになった。当然村落単位で信徒組織(コンフラリア)が組織され、慈悲の組織(ミゼリコルデア)も活発な活動を展開して人々の相互扶助により助けられた多くの人々が新たにキリシタンになった。この時代、入信に導いた一番効果的な宣教は、信者たちの献身的な宣教とそのキリシタンとしての姿だった。異教徒は自分たちが接したキリシタンの生活やその話により、神への道と光を見出した。信徒使徒職の働きによる伝道は、神父の説教よりもはるかに異教徒たちへの手本となり、無私無欲でキリシタンとして人々に奉仕する姿を見て、多くの人がキリシタンとなっていった。 

セスペデス神父を中心に加賀山隼人正と清田朴斎が教会活動として最も実践したのが、「慈悲」すなわち、貧困に喘ぐ人達への援助、病人の救済と養護、癩(ハンセン病)病人の収容だった。キリシタンのなかから、ミゼリコルジアの組長、および組員達が決められ、集められた寄付金は、貧乏な寡婦や孤児、病人、その他の貧しい人達に配布された。ミゼリコルジアの組員達は貧しい身ではあったが慈悲の業や慈善事業を好んだので、小倉の街外れに癩(ハンセン病)患者達の家を作った。また孤児院を教会の中に設け、孤児達を保護し養育していた。

 信徒組織(Confraria de Misericordia・慈悲の信心会)とは、信仰共同体における兄弟会を意味している。信仰を生活の基盤として持ち、相互扶助、すなわち互いに助け合い励ましあいながら自分と相手の人格とを高めあうことを目的とした信徒達の共同体として発展していった。キリストにある平等という信念に基づき、地位、階級、貧富などの差別を克服して、相互扶助を実践していった。貧しい人々、虐げられた人々(被差別部落・穢多,非人)、見捨てられた病人(ハンセン病・癩病等)、流浪の乞食等に手を差し伸べていった。これらの人々に対してまず自分達が『共生』を実践して見せ、賛同を得た回りの人々と共に働き、社会事業として定着させ、結果的には布教活動に結び付けていった。

初めは宣教師の指導の下に自助信徒組織としてのミゼリコルデア・慈悲の組と、コンフラリア・信心会として組織化した。信徒代表がこれを指導して宣教師の下、活動を展開していた。信徒代表は、組親とか組頭と呼ばれていた。信徒組織は定期的に集会を持ち『心業修行』『キリストにならいて』(コンテムツスムンジ)『ドチリイナ・キリシタン』『ぎやどぺかどる』『サントスの御作業』『ヒイデスの導師』『スピリッアル修業』等、などの霊的書物を信徒代表が信徒達に読み聞かせて信仰の強化を図っていた。死者の埋葬・教会の管理維持・病人や貧しい人々の世話などの慈善活動を率先して行った。

コーロス徴収文書に記載された小倉・中津の信徒代表者達
*コーロス徴収文書とは1617年(元和3)8月24日、豊前の国小倉、8月25日中津、両町のキリシタン代表者達がイエズス会日本菅区長マテウス・デ・コーロス(Mateo de Couros)の求めに応じて信仰を告白して自筆署名した文書であり、小倉31名、中津17名の指導者の名前が記録されている。

小倉のキリシタン代表者の名簿 31名  1048~1050頁
御出世以来千六百十七年(1617年)元和参年八月弐四日
松野はんた理庵、松野ふらん志すこ、小笠原寿庵、結城志ゆすと、中村志ゆすと、加賀山了五、山田寿庵、清田志門、大串寿庵、大西了五、田中(安)あてれ、関備世天、菅原ちにす、大野満所、宮崎寿理庵、鷹巣ろまん、大串志もん、角野ミける、木付はうろ、吉良志もん、佐田とめい、甲斐志よらん、糸永理庵、了意志もん、田代理庵、田吹(安)あてれ、薬師寺志めあん、米や寿庵、ぬしや寿庵、ときやへいとろ、をひや寿庵。

中津のキリシタン代表者の名簿 17名   1051~1052頁
御出世以来千六百十七年(1617年)元和参年八月弐十五日
久芳寿庵、櫛橋理庵、川井寿庵、小嶋パウロ、志賀ビセンテ、内田寿庵、矢田ジャコウベ、内山トウマ、田房ベント、内田シモン、久恒寿庵、同シモン、蠣瀬自庵、推田ペイトロ、御手洗ゑすてハん、今永トメイ、魚住たい里やう。
*『近世初期日本関係南蛮史料の研究』  松田毅一 風間書房1967
  第六章 元和3年、イエズス会士コーロス徴収文書 1022~1145頁

小倉と中津の信徒組織・コンフラリアは1600年、中津でセスペデス(Gregorio de Céspedes)神父が働き始めたときには既に信徒の間で組織構築され存在していて、1603年、中津から小倉に移ったときも、小倉教会の中に存在していた。信徒達の貧しい人々への施し、ハンセン病(癩病)患者への救済、教会の中に設けられていた孤児院での働きなどが、イエズス会の報告書に述べられている。

1611年12月、セスペデス神父の突然の死去後、細川忠興の追放命令により小倉と中津から撤退を余技なくされた伊東マンショ神父とカミロ・コンスタンチオ(Camillo Costanzo)神父が、小倉と中津を撤退するときに構築した信徒組織・コンフラリアとは、既に存在していた信徒組織を再組分けして、各組織に代表者を任命して迫害下に於いて潜伏活動するための準備を整えたと考えられる。各組織の代表者に臨時の洗礼の仕方や、瀕死の人の補佐をすること、葬式の仕方に関する知識を授け、更に最も年を重ね経験を積んだキリシタンを選んで代表者の補佐役とした。この時任命された指導者達の名前を、6年後の1617年(元和3)8月に作成されたコーロス徴集文書の中に見ることが出来る。

被差別民への援助
イエズス会年報には多くの被差別民の姿が描かれている。「下層の職人」「最下級の奴隷か賤民階級の一人」「いかなる賤務も厭わぬ」「極貧の人達の間に混ざって」「賤しい労働に従っている」。小笠原玄也の記録とともにイエズス会の記録に記述されているこれらの被差別部落民とは、どの様な人達であろうか。

小倉周辺と長崎に関するイエズス会の記録から被差別部落民の姿を考察する。 

ルイス・フロイス(Luís Fróis)神父の『日本史四 五畿内篇Ⅱ』第一部八七章 一六七頁
『司祭が信長及び政庁の諸侯の前で日乗上人と称する仏僧と行った宗論』からの引用。

『それどころか、篠原殿は彼(日乗上人)を穢多(えた)に引き渡させた。穢多というのは、インドのマラバール(海岸にいる)ポレアと同様に、日本で最も賤しい、仲間外れにされた賤民どもで、その職は死んだ獣類の皮を剥いでその皮を売ることである。彼らはまるで他の人たちと交流するに値しない不浄な人であるかのように、いつでも村落から離れて住んでいる。この人たちが彼を捕らえて津の国の西の宮という所につれていった。』 

『日葡辞書』日本イエズス会刊行(一六○三~○四年)からの引用。

垣外の者 : 町や村の外に住み、卑賤な人々で、上品な人々と交際しない者。

河原の者 : 死んだ獣の皮を剥ぐ者であり、癩病患者に対する監督権と持つ。

皮屋   : 帯革製造人の家。単衣を作る靴造りの家。またその職人自身。

長使   : 他の人が認めている頭、または長(おさ)
       死んだ獣や牛の皮を剥いだりする人々、あるいは、癩病人に対して監督権を持っている頭、長(おさ)。穢多(えた)とも呼ぶ。

穢多・えた: 長使と同じ。色々な仕事の中でも、死んだ馬や牛の皮を剥ぎ、その皮で様々な物を作るのを職とする、身分の賤しい人々。

乞食   : 貧しい人。下(九州)では癩病患者の意味。

貧人・非人: 貧しい人。貧女。『ぎゃどべかどる』の字集に『貧人』‘ひにん‘の読み仮名をつけてある。

賤民   : 身分の賤しい下層階級の人々 

『近世九州被差別村の成立と展開』松下志朗編(明石書店)のなかの、小倉藩被差別部落の構造から「表4 箕田村「穢多・非人」の女房出生地
傳助 二五歳、家族 男三人、女二人、計五人。女房出生地 田川郡採銅所」とあり、小笠原玄也の住んでいた採銅所にも被差別部落(穢多部落)があったことがわかる。 

「皮屋」と呼ばれている被差別部落の人々(賤民達、穢多・非人達)は、日頃、死んだ牛や馬などの皮を剥ぎ、なめして加工し生計の足しにしていた。何故なら、一頭の斃(へい)牛馬の処理は三人分の一日の労働でしかなく、時々牛馬が死んだ時だけの不定期な仕事だったので、多数の人々が従事できて安定した収入をもたらす仕事ではなかった。 

皮革生産は斃(へい)牛馬の皮剥ぎ処理から実用的なめし革になるまでに、十六から二十二の工程を要する高度な技術をもつ仕事だった。当時も皮革生産はどうしても必要な重要産業であり、賤業視される根拠は「皮剥ぎ」という「死体を扱う穢(ケガ)れ」という意識、及び「穢(ケガ)れ観」にあった。「皮屋」は皮を剥ぐときにその血を洗い流すための大量の水が必要とされたので、おのずからその作業場所は川のほとり、河原での作業となり、作業場所に近い河原が定住場所となっていった。「皮屋」と「河原の者」が同義語の様に扱われるのは、このような作業状態を指すためと思われる。 

中世以来の穢れの意識と職業観と身分差別を結合して作り出した階級が被差別階級(穢多・非人)だった。反面、皮革の生産と販売は大きな利益をもたらしたが、多数の被差別部落民の生活を支えきる仕事ではなかった。 

副業として見られているが、被差別部落民の本来の重要な産業のひとつに、草履(ぞうり)、わらじ造りがあった。市場で売買される大量の草履、わらじは、この被差別部落の人々の手によって作られていた。被差別部落の人々が百姓に雇われて小作人として農業に従事していたこと、また百姓と同じ様に被差別部落民が米や野菜、作物を作り、それを売って生計を立てていたこともわかっている。また、被差別部落の人々が野菜類や薪・柴を街中で商うことが禁止されているお触れを見ると、実際には被差別部落の人々によって広く商売がなされていたことが残された記録等によって推測される。 

これら日々の生計を立てる仕事とは別に、奉行所から命令されて、罪人の処刑にあたり、刑場の準備をする仕事もあてがわれて奉行所から賃金が支払われていた。処刑場の設営、竹矢来の設置、罪人の処刑場までの連行、火刑の場合の薪の確保と運搬、火刑処刑のときの薪くべ、十字架の作成と運搬と設置、十字架上の罪人へ槍で止めをさす仕事、処刑後の遺体の片付け、処刑場の後片付け、武士、役人達が人間として嫌がる残虐な処刑の仕事のすべてを押し付けられ、強制されたのが被差別部落の人達だった。 

「最下級の奴隷か賤民」「極貧の人々」これら被差別部落の多くの人々がキリシタンだった事実が、レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』、オルファネール著『日本キリシタン教会史』、カレーロ著『聖なるロザリオの信心』、コリャド著『日本キリシタン教会史補遺』『イエズス会日本年報』等に克明に記録されている。 

キリシタン達の慈悲の組(ミゼリコルジア)の活動が如何に蔑(さげす)まれた底辺の人々の心に浸透していたか、虐(しいた)げられている彼らも又キリシタンとして如何に誠実に生きていたかを知る記録として上記の著書より引用して次に掲げる。 

『一六・一七世紀イエズス会日本報告集、一六〇六、一六〇七年日本の諸事』。豊前と豊後の国でおこなわれたことについて(第十七章)

『武勇ゆえに、見識、廉直(れんちょく)さ、その他の美質ゆえに(細川)越中殿に大いに重んじられているこの国の奉行の一人(加賀山隼人)は、善良なキリシタンであり、その国の他のすべてのキリシタンの父または支柱なので、我らの主への奉仕、その国全域への我らの聖なる教えの伸張のほかは何も考えていないようで、手中にあるあらゆる可能な手段をそのために求めている。そして、彼の家来の大半はすでにキリシタンであり、彼の領地の他の住民も(キリシタンである)が、そのほかに彼は、刑死する者たちがキリシタンとして死ぬように努めている。そして、隣人たちの福利や救済への彼の説得と熱意によって、実際に多数の人が(キリシタンとして)死んでいる。この件では幾つかの目覚ましい出来事があった。例えば或る異教徒の例だが、(役人は)彼を犯罪ゆえに頭を下に足を上にして十字架につけ、いっそう苦しませるために十字架上で一日中生かしておいた。数人の熱心なキリシタンが彼のもとに来た。そして、彼が生きているのを見て、キリシタンとして死にたくないかと尋ねた。彼は嬉しそうに「そうしたい。幾度か教理の説教を聞いたことがあり、キリシタンの教え以外には人が救済される道はないと悟っていたので、死ぬからには、自分をキリシタンにして自分の霊魂を救済して下さるようぜひともお願いする」と答えた。キリシタンたちはその受刑者の望みをただちに司祭に伝えた。司祭は、彼に説教し洗礼を授けるために説教者を気寄越した。その喜ばしい目的をもって受刑者は我らの聖なる教えのもっとも本質的で肝要なところを聞き、過去の罪を深く悔いて洗礼を受けた。受洗すると、数人のキリシタンが彼に付き添い励まして立派に死ぬための準備をさせ、ついに、夜になって、刑使たちに槍で突かれて息絶え、信じられているように、デウスを享受しに行った。教会の同宿たちとそこにいるその他のキリシタンたちは、その瞬間に彼を援助するために待ち、跪坐して大声で彼の霊魂のために幾つかの祈りを唱えた。その行為を目撃した異教徒たちは大いに感化され、彼らは、キリシタンたちのキリスト教信仰の、さらには彼らにそのようなことを教える我らの聖なる教えの数多くの徳を数えあげて飽きることがなかった。』
(第一期 第五巻 二三三~二三四頁 同朋舎) 

『豊前の国、小倉の市(まち)には我らの(イエズス)会の司祭二名、修道士二名、および我らの主がその市と国に形成しつつあるキリシタン宗団の教化にとって必要なその他の僕べたちが居住している。』(第一期 第五巻 二三一頁 同朋舎) 

一六〇六年(慶長十一)の小倉の教会構成表には、司祭はグレゴリオ・デ・セスペデス(Gregorio de Sespedesu)神父ひとり、修道士ジョアン・デ・トーレス、アンデレ・斉藤二名とある。 

一六〇七年の教会構成表には、司祭グレゴリオ・デ・セスペデス(Gregorio de Sespedesu)神父、カミロ・コンスタンチオ(Camillo Constanncio)神父の二名、修道士ジョアン・デ・トーレス、アンデレ・斉藤、二名とあり、教会構成表と上記のイエズス会の記事とが一致するので、一六〇七年(慶長十二)の小倉に於ける出来事であると断定することが出来る。 

おそらく、司祭とは総責任者であるグレゴリオ・デ・セスペデス神父であり、遣わされた説教者とは、セスペデス神父の通訳者でもあり、中津時代から小倉教会をともに立ち上げるために努力してきたジョアン・デ・トーレス(日本人)修道士であろう。カミロ・コンスタンチオ神父は着任したばかりであり、経験もさほどなかったと推測できる。 

次の年一六〇八年(慶長十八)になると、伊東マンショ神父がセスペデス神父の片腕として赴任してくる。 

この記事から読み取らなければならないことは、刑場の設営、十字架の作成、受刑者を十字架に付けること、処刑後の後片付け、等、すべて被差別部落の人々によってなされていること、これらの人々がキリシタンであるということ、加賀山隼人がこれら被差別部落の人々と交わり、彼らに深く尊敬されていること、被差別部落のキリシタンたちが死に逝く受刑者の隣人となって寄り添っていることである。 

加賀山隼人の長女・みやと小笠原玄也が結婚したのもこの年一六〇七年(慶長一二)頃のことであり、小笠原玄也もおそらくこの処刑のときの出来事は知っていただろうし、あるいは小笠原玄也自身も加賀山隼人と共に刑場に姿を見せていたのかもしれない。あらゆる機会を見つけて人々の救霊のために、人々を神へ導くために使おうとした加賀山隼人の後姿はやがて小笠原玄也にキリシタンとして歩むべき道を指し示し、玄也の心を整え始めていた。 

刑場での救霊活動は処刑のたびごとに行われていたであろうから、加賀山隼人の影響もあって若い小笠原玄也もこのような機会に於いて被差別部落の人々と交わりを持ったであろう事は容易に想像することができる。刑場に於ける救霊活動や慈悲活動を通して、義父加賀山隼人の後姿に見習って若い小笠原玄也(二一歳)の信仰は徐々に形成されていった。 

このような刑場に於いても、被差別部落の人々に対する慈悲活動および救癩活動に於いても小笠原玄也は最下層の人々と交わりを持つようになっていった。この経験が一六一四年(慶長一九)以後香春町中津原浦松に追放されてから後、自分自身に帰ってくるとは思ってもいなかったであろう。香春町中津原浦松に於ける玄也一家を多くの被差別部落の人々が支えていたことも理解されるだろう。 

イエズス会一六一一年日本年報より(筑後の国、柳河の司祭館)
『レプラ(ハンセン病)の信徒が一人なくなったが、死体の発する臭いがあまりにひどく、誰一人あえて死体に近づこうとしなかった。しかし(神の)恩寵が自然の情を打ち負かし、幾人かの高潔な若者が、かくも敬虔な業の功徳を得ようと近づき、死体を洗うと埋葬のために布にくるんだ。これを見ると他の信者もこのように輝かしい慈愛を分かち合おうとその労苦に一部力を貸し、肩に遺体を担ぐと墓地まで運んでいった。このことは信徒ばかりでなく、異教徒達にいっそう認められた。異教徒達は生来嫌悪し忌み嫌っている多くのことがキリシタンによってなされているのを見て、驚き呆れている。』(第二期 第一巻 二三八頁 同朋舎) 

『編年差別史資料集成』第六巻 近世部落編一より
『慶長見聞集』第三 『大日本史料』第十二編の九

一六一二年(慶長十七年)三月二十一日
『当将軍の御時代に、又伴天連と云坊主を多渡し、長崎・京・伏見・江戸に寺院を立置、先非人乞食を養い、我宗になす。』
(将軍徳川秀忠の代に伴天連が多数渡来して、長崎・京都・伏見・江戸において教会を建築して、まずは非人・乞食を養いキリシタンにした。) 

『令状』春『大日本史料』第十二編の十
一六十二年(慶長十七年)八月六日

『伴天連門徒御制禁也、若有違背之族者 不可遁れ其科事』
(幕府はキリスト教の禁止と、牛を殺すことを禁じる。) 

一六一四年(慶長十九)度イエズス会日本年報
『(小倉)市の外のあばら家に、或る貧しいレプラ(ハンセン氏病)患者達が住んでいたが、この地の役人はこれらの者たちも責めたて、もし信仰を棄てないならば、家もろとも焼いてしまうと脅かした。しかし、彼らは、命じられたことをするくらいなら、火にかけられる方がましだと答え、その意志の堅さを見て取った役人は、荒々しい口調で、追放するのでどこか別のところに行って住むように、と命じた。』
(第二期 第二巻 一二九頁 同朋舎)

推論
小倉周辺にも被差別部落がありその人々の頭の管理下にハンセン氏病(癩病)患者達が住んでいた。処刑のたびにこれら被差別部落の人々が荷役を命令され従事していた。 

幕府の手前、細川忠興にとって小倉の市外地に住んでいる目障りなキリシタン被差別部落の人々とハンセン氏病患者達の一掃をしなければならなかった。このハンセン氏病患者達の追放と小笠原玄也の小倉追放とは同時期、一六一四年(慶長十九)秋十月頃と思われる。 

一六○七年(慶長十二)の記事でもわかる通り、これら被差別部落の人々(多くはキリシタンだった)と加賀山隼人、小笠原玄也、清田朴斎、伊東マンショ神父等が深く係っていることが理解される。伊東マンショ神父は、小倉の街外れに或る被差別部落およびハンセン氏病の患者達を定期的に訪問しては彼らに必要なものを施していたと容易に考えられる。 

そのために教会では慈悲の組、コンフラリア(信徒組織)が作られていた。その陣頭に立って指揮をしていたのが、小倉教会の副責任者である伊東マンショ神父だった。加賀山隼人、清田朴斎、小笠原玄也等、キリシタン信徒組織・コンフラリアの会員の皆で協力して全てのことにあたっていた。 

当時の癩の治療法は癩の特効薬とされていた大風子油が使われていたようである。一五五七年(弘治三)ポルトガルの外科医の免許を持つアルメイダ(Luís de Almeida)が豊後の国府内(現大分市)に於いて病院を建てたときに、南方において貿易商人として活動していた経歴を持つアルメイダは、当時南方に多い癩の特効薬とされていた大風子油の使用についてはかなりの知識と経験を持っていて病院開設とともに治療にあたったと理解して差し支えないと思われる。 

関場博士著『南蛮医術伝来史』の中で『大風子油は当時インド及び南洋諸島において癩病塗布薬として使用されていた模様であるから、府内病院でも癩の治療薬として使用されていたであろう。』との見解を示されている。 

アルメイダ医師の下で働いていたコスメ・デ・トーレス(日本人イルマン)は、小笠原玄也の遺書第九の中で、キリシタン創成時代・豊後府内の病院の医師アルメイダから習った目薬の作り方を教えていたと理解できるので、大風子油の癩患者への塗布薬も当然看護する小倉教会の人々に伝えていたであろうことは容易に理解できる。 

一六一九年(元和五)長崎に於いて、十一月十八日と十一月二十七日の殉教について
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史・中巻』(第四章 百十~百十三頁)

村山徳安・レオナルド木村、他三人の殉教について

『キリシタンである一創手は、この貴重な血に手を侵すことを欲せず、己が職分を断り、同時に輩下の許に知らせに行き、自分に倣って拒絶させた。(長谷川)権六は、この前の殉教者の時と同様、役人として自分の家来を使わなければならなかった。殉教者たちは、皆大勢の人々の前で、子供達の歌う讃美歌に合わせて、口にイエズスとマリアの聖名を唱えつつ息を引きとった。この「皮屋」は賤民で、罪人を縛って引き立て、火炙りの時には、薪をくべるのが職業であったが、それを拒んだ。この人々は、殆んど皆キリシタンで、宣教師たちの手厚い世話を受けていた。』
オルファネール(Jacinto Orfanell)著『日本キリシタン教会史』二九六~二九七頁

第五十五章 エルマノ・アンプシオの幸いなる昇天、および長崎で行われた数々の悪行について
『デウス(神)は日本において目に見える軌跡を下し給わなかったか、あるいは乏しかったが、しかし目に見えざる数々の奇跡を日々下し給い、かかる苛酷な迫害の最中においてキリシタンに勇気と気力を与え給いている。したがって、しばしば見られたように、極めて身分賤しき者ですら大胆にも暴君に抵抗したことが判明している。その結果、現在も何人かの者が投獄されているが、もしすべての者を逮捕しなければならないとすれば、収容すべき牢獄はなかったことであろう。至福のエルマノ・レオナルド(木村)と宿主四人が処刑された時、奉行が皮屋Cavayasという某町の住民(判決を受ける者が出ると、罪人を縄で引き立て、火刑に処さねばならぬ場合には薪を準備し、その他、死刑執行人の職務に関する仕事に携わる人々)に死刑の執行を命ずると、彼らはその理由を知って「絶対に致しませぬ。死刑に処したいと望まれるならば一同喜んで死にます」と言って打ち切った。彼らが応じないと答えた時、明らかに危険にさらされた。が、彼らはかくも大胆に主の聖なる名誉を守ったので、我が主はこれら卑しき人々に格別の報酬をもってそれに報い給であろう。そして主は既に報い始め給うているかに見える。なぜなら、皮屋の頭が文通し、今わの際に会って別れを告げたいと切望していた聖ドミニコ会の某パードレ宛に書き残した書簡で私が見たように、この事件から一年後、彼は自己の救霊予定の確固たる証拠を歓喜して抱き、死後の昇天の希望を固く確信して死んだからである。』 

ドミニコ会の神父達、修道士達はつねづね賤しい下層階級の人々、被差別部落(穢多・非人達の住んでいる場所)を訪れて、彼らの生活に必要な物資を恵み、施しを与え、また蔑(さげす)まれてすさんだ心の悩みを聞き、神の言葉を聞かせて励まし、希望を抱かせる言葉を掛けていた。それゆえ、これらの賤しい人々が自分達の罪を悔いて、部落ごとキリシタンになっていた事実を知ることができる。また、この虐(しいた)げられた人々の近くに住むハンセン氏病(癩病)患者達にも同様の救いの手が差し伸べられた。住まいが出来る限り清潔に保たれて必要な医薬品の施しがなされ神の福音が伝えられ、多くのハンセン氏病患者達がキリシタンになった。 

カレーロ神父『聖なるロザリオの信心』(一八七頁)
『皮屋は貧しい人々で、その職業はなめし皮職人であり、日本では他の職業の誰もが彼らと食事を共にしたいとは思わぬほど下層の人々と見なされ、この国の習俗によれば、死刑囚が出ると、縄で引き立て、火刑に処せねばならない場合には薪を運んで準備する。彼らは下賤の身分ゆえにきわめて評判の悪い人々であるので、ドミニコ会の神父は常時、長崎で彼らの告解を聴き、慰めを与え励ましに赴いていた。修道士達の少なからざる慰籍によって彼らが徳に向上した成果、および信仰の証しに張っていた大きな根、それがあたかも強い太綱のように信仰に結びついている様を見ると、それは心からなる信仰の受容者に相応しい信仰である。』 

第二十章 聖ドミニコ会の某同宿を泊めたかどで某百姓が追放された次第、および善き組員にして(代官・村山)当安の子マヌエル、ディエゴ、ミゲルと孫アントニオの殉教について

『ところで、すでに述べているように、善きアンドレ徳安と善き仲間四人を火刑にしようとした時、役人が皮屋に薪を探して運べと命ずる事件が生じた。しかし彼らは、それが何を目的とした行為であるか、またその行為がキリシタン教界を絶滅してその信捧者を痛め苦しめることを狙っていることに鑑み、それに応じようとせず、「共犯者となるよりは、むしろ無数の、しかも死に至る最も苛酷な責め苦を受けます。このような酷い刑罰の手伝いはできませぬ。」と述べた。役人はこのような見事な勇気に驚き、彼らから何も得ることはできぬと思ったので、そのまま放置して見逃し、他の人々に対してこれに応じるようにと命じた。しかし我がデウスは、かかる勇気ある最もキリシタンに相応しい行為に必ずや報い給うた。すなわち、既に述べた翌年の一六二○年に、この皮屋の頭である聖なるロザリオの組員であった者が刑死した。彼が今わの際に会いたいと切望した聴罪司祭の聖なる殉教者ドミニコ会士フライ・ハシント・オルファネール(Jacínto Orfanell)宛に書き残した一書簡に見られるように、彼は歓喜すべき自己の救霊予定の確固たる兆候があり、天国で我が主デウスにお会いするという望みを確信していた。彼がパードレに会えなかったのは、パードレが霊的慰めをきわめて必要としている他の地方に忙殺されているので、その機会がなかったからである。すなわち、聖職者が不足し必要性があり過ぎるほど赴かねばならぬ地方が多かったからである。』 

これら被差別部落の人達が奉行所より処刑の手伝いを命じられた時、処刑される人達がキリシタンと知ると、自分の命を賭けて『罪のないキリシタンを処刑することはできない。』と断固拒否して、自分の信仰を表明した事実にも驚かされる。処刑を拒否したために皮屋の頭はキリシタンとして約一年牢屋に入れられた後、処刑された。 

『一六一九・二○年度イエズス会年報』報告書のなかの
一六一九年(元和五)十一月二十七日付け

『長崎に於いて斬首された十一名の殉教者』
『日本には下層、かつ不名誉な身分の部落民がいる。この国の古い習慣により死刑の宣告が下るや、屠り場へ曳き行き、縛りつけ、殺す任に当たるのはこの部落民である。その中の一人の切支丹は、刑に立会い、自分の職務を果たすように命じられたとき、断然その命を拒んだ。 

『彼ら(殉教者達)は、自分の罪と悪事とを承服して、当然処罰されるべき悪人のような人達ではない。このような処刑者をいかに鄭重に恭々しく取り扱うべきか、自分は勿論、自分の同僚もよくわきまえているので、そんな役目は御免蒙りたい。御役人は、無駄に時を費やし、自分達を言い含める努力をなさらぬがいいと思う。』と、断然と言い放ち憤然として奉行の前を立ち去った。それから同僚を集めて、事情を残らず打ち明けて、この事に就いては、財産や生命を救霊よりも重んじない。自分達は首を切るためではなく、キリストのために首を差し出して謝罪をするだけの覚悟をしていると、一同が申し合わせた。このことを知った奉行の長谷川権六はさわらぬ礼を装い、前に言った五人に対してしたように、自分の家来を遣わして刑使の任を果たさせた。』 

『福者ホセ・サン・ハシント・サルバネス(José de San Jacinto)OP、書簡、報告』キリシタン文化研究会シリーズ 十三 (六七~六八頁)一六一九年の報告

昨年一六一九年三月に船が出帆した後に起こったことについての簡単な報告一六二○年三月二十五日(長崎より)菅区長代理フライ・ホセ・デ・サン・ハシント、(José de San Jacinto)マニラ宛の書簡

『この機会に殉教者から生じた二番目に大きな偉業は、獣類の皮を剥ぐことを職業としている皮屋の上に起こったことです。これらの者は牢の番をし、死刑になる者を縛って連れて行く仕事もしています。この者たちは今から二年前(一六一八年十一月二五日)十二人の殉教者が焼かれた時と同じ様に今回も、罪であることを知っているので、処刑の仕事に出て行こうとしませんでした。キリシタン代官(事実キリシタンだった末次平蔵)平蔵は彼らのうちの三人を呼び出し、「自分の職業であるのになぜ出てこないのか。」と叱責しました。彼らは「絶対にすることはできません。神父から教えられたからです。」と言いました。「考えてみよ。もしこの仕事をしないなら、お前たちは死ななければならぬ。私を恨むな。」と言いました。彼らは「絶対に不平を言いません。あのような事をするよりも、死ぬ覚悟をしています。」と答えました。「他の者どもも同じ考えか。」と訊ねると「そうです。」と言ったので、他の者も呼び出しました。彼らも同じ回答をしたので、平蔵はみな自分の家へ帰らせ、「家を出てはならぬ。また逃げ隠れしてはならぬ。」と命じました。それで彼らは家に戻り、喜んで神に命を捧げる準備をしていました。彼らの長であり金を持っている者がすべての人々とその妻子を慰め、「神が与えてくださる生活の方法を心配しなさるな。私の持っている銀は役人に見つからない処に隠しておくから、それで皆を援け養うことができるだろう。」と言いました。この励ましと準備によって今まで待っていましたが、役人からは何も言って来ないし、今後も言って来ないだろうと思われます。この人々は日本で最もさげすまされている貧しい人々ですから、聖殉教者フライ・エルナンド・デ・サン・ヨセフおよびフライ・アロンソ・デ・ナバレーテ(Alonso de Navarrete)両名は彼らに施しを与え、ミサを捧げ秘蹟を授けて彼らを援け、そのために小さな礼拝所を造りました。彼らは皆ロザリオ会員であるし、常に私たちの修道会から彼らを導きに行っていますから、彼らはよくキリスト教のことを理解しロザリオの信心を熱心に実行していました。この話の事件が起こった折、彼らのうちの何名かが一番先に会い告解をして慰めを与えてくれたのは私たちの修道会の一修道士でした。人を通して彼らを励まし教え導くほかに、修道士自らも彼らのところに行っています。彼らに関する前記の秀れた物語は彼らから私が聞いたものです。』 

サン・ハシント(Tomas de San Jacinto)神父自身が宣教師として菅区長代理として、長崎に住む憐れな皮屋の人々の世話をした多くの宣教師達の一人であることを上記の記録から理解することができる。 

一六二十年(元和六)八月十六日、日の出から約二時間後、小倉に於いて

シモン清田朴斎(六〇歳)妻マダレイナ、家僕トマス源五郎、妻マリア、息子ジャコウベ文蔵少年が逆さ十字架に架けられ処刑された。この五人の処刑のときにもなめし皮職人『皮屋』が処刑執行を拒否した。奉行所の役人達は彼らを棒で何度も殴打して脅し、命令に従わせようとしたが、皮屋達はそれを耐え忍んで処刑をしなかった。『無実なキリシタンを殺すことは非道なことだ。そのような処刑に協力すべきではない』という確固とした信仰に基づいた意思表示(信仰告白)をしている。シモン清田朴斎はディエゴ加賀山隼人とともに『教会の柱石』と称えられるほど豊前に於ける信徒の中心だった。加賀山隼人は一六一九年十月十五日の早朝、小倉に於いて処刑されている。 

カレーロ神父『聖なるロザリオの信心』一九六頁
第二十一章 逆さ磔に処せられた聖ドミニコ会士の宿主シモン清田と妻、下男の幸いなる殉教、および聖なるロザリオの組員の勇敢な行為について 

『この頃、なめし職人「皮屋」が、彼らの習俗と義務のゆえに罪人を縛った時に、篤信の聖母の組員(ドミンゴ松尾)をも縛れと命ぜられるに至る事件が生じた。同組員は修道会士(フランシスコ会士)を宿泊させた廉(かど)で拘留されていたのである。しかし上述の日本人も組員であったので応じようとはしなかった。庄屋の役人たちは彼らを何度も殴打したが、彼らはそれを耐え忍び、その善き意図を遂行した。それはかかる非道な捕縛に協力すべきではなかったからである。』 

一六二十年(元和六)八月十六日、日の出から約二時間後、小倉に於いてシモン清田朴斎(六〇歳)、妻マダレイナ、家僕トマス源五郎、妻マリア、息子(少年)ジャコウベ文蔵、逆さ十字架に架けられた。シモン清田朴斎、妻マダレイナは翌日十七日の日没時に絶命した。トマス源五郎、息子ジャコウベは三日目(十八日)にも息をしていた。まだ長く生きそうであったので槍で貫かれ、至聖なるイエズスとマリアの御名を唱えているなかに死去した。マリアの死亡時刻は不明。五人の遺体は火中に投じられて焼かれ、その灰は海に棄てられた。シモン清田朴斎と妻マダレイナの遺体を焼いているとき、三日月形の虹が二つ、☽☾ 互いに背中あわせに出現した。逆さ虹の両端は天に付いていた。翌日、五人の灰が海に棄てられるときにも、同様の虹が出現した。 

シモン清田朴斎は加賀山隼人とともに『小倉教会の柱石』と称えられるほど豊前のキリシタン信徒達の中心人物であり、細川家家老・加賀山隼人も特にシモン清田朴斎を常に称賛していた。一六一七年(元和三)八月二四日、豊前の国小倉の分、コーロス徴収文書にも清田志門(花押)と名前がある。 

シモン清田朴斎は豊後のキリシタン大名・大友宗麟に仕えていた武士で、家柄も貴く、心も気高く、少年時代から武道に親しみ、戦場を疾駆して勇名を轟かしていた。宗麟の嫡男、大友義統(よしむね)が、一五九三年(文禄二年、朝鮮・文禄の役)二月八日、明軍の平壌城攻撃のとき大友軍は軍律に違反して撤退した。報告を聞いて激怒した豊臣秀吉によって、五月三一日、勘当状が出されて義統は改易され豊後の領地を失い、追放されて毛利輝元に預けられた。その後豊後は七つの小藩に分割された。その時シモン清田朴斎は世の無常を感じて人間的な一切のことを止めて、神にのみ仕える決心をして伝道者として非常に熱心に教会のために働いた。伝道者という職務柄、いつ殉教するか判らなかったので、シモン清田夫妻の生活は清貧を旨とした修道者の様な生活を送り、常に殉教のために自分を整えていた。 

信仰を棄てよとどのように脅かされようとも、他人の救霊のために職務を棄てず、異教徒をキリシタンに導き、新しい信徒達の信仰を励ましていた。シモン清田の徳の模範は非常に強い刺激を人々に与え、また徳自体は人々を極めて親密にして、同じ敬虔の徳を重ねさせた。妻マダレイナは『何も私たち夫婦を引き離せるものはありません。どんな苦しみも、どんな刑使もこの口から背教の声を出させることができません。だから私はこの戦いを逃れず、むしろこれを望み、これによって私の信仰を、あなたにもキリスト様にも証明いたします。誰が死を妨げたり拒めましょう。私はキリスト様のために死ぬことができますし、またあなたと共にさえ死ぬことができます。』と言った。 

役人達はジャコウベ文蔵少年を脅して拒否されるとついには拳固で殴る、足で蹴る暴行を加えた。ジャコウベ少年は『その馬鹿げた脅しは何ですか。あなたがたはふざけていると思います。この幼稚な威嚇に心を動かす私ですか。そんな不名誉な転びはしません。なぜ平民を打つように私を打つのですか。なぜつまらぬ傷を加えるのですか。頭はここ、脇はここです。なぜ刀を研がないのですか。斬ってください。どうしてためらうのですか。他は少年でも心と信仰はそうではありません。』と言った。 

家僕トマス源五郎、妻マリア、息子ジャコウベ文蔵少年も、シモン清田の清貧の生活を見習い、同じ道を歩んで共に殉教の栄冠に与かった。 

一六二○年(元和六)八月十六日、日の出から二時間後、五人は逆さ十字架に付けられた。シモン清田と妻マダレイナは、翌日十七日の日没時に死去した。三日目の十八日、トマス源五郎と息子ジャコウベ文蔵少年はまだ生きていたが、至聖なるイエズスとマリアの御名を唱えている中に、槍で貫かれて死去した。妻マリアの死亡時刻は不明。五人の遺体は信徒達に崇められないように火の中に投じられ、完全に灰にしてから海に棄てられた。 

結城了悟『ホアン・バプティスタ・デ・バエザ(Juan Bautista de Baeza)神父の二つの書簡について』キリシタン研究第十巻、一六二一年(元和七)二月八日長崎に於いて

ディエゴ(水野谷チンバ)と四人の潜伏者、およびドミンゴ松尾の逮捕

『平蔵(末次平蔵・第三代長崎代官)は皮屋町の者に殉教者を留置しておくように下命しましたが、町の者達はその命令には従いたくない旨答えました。このように彼らが答えたのは、今回が初めてではありません。また平蔵は馬町の代表者に命じてドミンゴを炙るための薪を運ぶように言いましたが、このときもやはり伝言が三回も繰り返されたのに、全町民挙ってそれに応じたくない旨答えました。当地(長崎)のキリシタンは罪を犯すよりも、斬られ、焼かれたりすることを承知の上で様々に驚嘆すべきことを行っております。更にかかる残酷な殉教を目撃し、また非道さに直面しても彼らは弱くも陰気にもならず、むしろ勇気を奮い起こし、また己が家に私達を匿ってくれる者もいるのです。貧者が富者より勇気に溢れているのは事実で、富者は冨の重みで我が主なる神の奉仕のためにあまり身軽になれません。』 

オルファネール(Jacinto Orfanell)著『日本キリシタン教会史』三一九~三二○頁
一六二一年二月八日、長崎に於いて

『バエザ(Juan Bautista de Baeza)神父の第二書簡、イエズス会、ペドロ・モレホン(Pedro Morejón)神父の在すところへ』

第五九章 長崎のキリシタン数人の示した勇気、その中の二人の殉教および署名のこと

『同日、同じくアロンソ・デ・カストロが、夕刻には修道会士の宿主ドミンゴ(松尾)が庄屋に連行された。ドミンゴが牢獄から引き出された時、ちょうど皮屋、すなわち皮なめし職人が判決のために引き出された三人の罪人を縛り終えたところであったが、ドミンゴを縛ろうとはしなかった。奉行所の役人達は何度も執拗に縛れと命じても、彼らは決して応じようとはしなかった。そこで役人達は皮屋を棒で殴打し続けたが、彼らは信仰のためであったので、それを歓喜して受けたのである。この有様を見た役人達はドミンゴを縛るために彼と同じ郡にある近くにある村の百姓を招集したが、彼らもやはり縛ろうとはしなかった。その中の一人、すなわち頭が捕らえられ、一日中、(末次)平蔵の屋敷に縛られていた。平蔵はこれを見て苦悩したが、何の手がかりも得られなかった。また平蔵は横目二人を面前に引き立てさせたが、それは彼らもこれら囚人に関する件には全く介入しようとしなかったからである。平蔵は厳しく譴責し威嚇した後、彼らを追放し横目の役を剥奪した。同じことは、本章の冒頭で述べた五人を牢獄から引き出したときにも生じた。すなわち、そのときも彼らを縛るものがいなかったので、庄屋の者たちが縛らなければならなかったのである。以上はすべて今年の一六二一年二月八日に生じた事件である。こういう事件は毎日、長崎で生じている。』 

オルファネール(Jacinto Orfanell)神父の『日本キリシタン教会史』第五九章に基づき、カレーロ神父は一六二一年二月八日と九日の殉教の出来事を述べている。
カレーロ神父『聖なるロザリオの信心』(二○○頁)より

『二月八日、長崎奉行長谷川権六と末次平蔵は、キリシタンのディエゴ・チンバ(跛行者)および入牢中の隠遁者四人を奉行所へ引き立てよと命じた。彼らは牢内のキリシタンを励まし未信者に洗礼を授けることで有名だった。この処刑のために皮屋に通達があったが皮屋は拒否したので、奉行所に雇われていた他の者に処刑を負わせた。同日スペイン人アロンソ・デ・カストロとドミンゴ松尾が奉行所に連行された。皮屋は罪人として宣告されないように再度拒否したので、キリシタンとして告訴された。』 

カレーロ神父『聖なるロザリオの信心』二○七頁
一六二一年二月十四日、長崎

ロザリオの善き組員ファン・高洲、およびファンとドミンゴ松尾の殉教について

ドミンゴ松尾の殉教・大草に於いて

『殉教の日が近づくと、(末次)平蔵は皮屋の住人に対して数束の薪を運べと命じた。彼らの町の住人はことごとく聖なるロザリオの組員であり、かかる聖母マリアの兵士として、このような不当な刑死には断じて協力しようとはしなかった。棄教者の(末次)平蔵はそれをいたく残念に思ったが、彼らの見事な固い決心を察して断念の止むなきに至り、他の日本人に薪を運ばせたのである。』 

オルファネール(Jacinto Orfanell)著『日本キリシタン史』第六○章と、カレーロ『聖なるロザリオの信心』二○八頁は、同じ殉教記事を述べている。 

カレーロ『聖なるロザリオの信心』二○八頁
『(末次)平蔵がドミンゴ松尾を殉教者として処刑するために薪を刑場に運べと「皮屋」に命じた時、彼らはある意味で同意(確答しなかった)した。しかし「乙名」すなわち彼らの頭が帰ってきて彼らを叱りつけると、彼らは一致して大胆にも「出来ない」と答えた。』 

オルファネール(Jacinto Orfanell)著『日本キリシタン史』第六○章

ドミンゴ松尾が修道士二人に宿を提供した罪で殉教したこと、および(長谷川)権六が江戸に上ったこと

『(長崎奉行の末次)平蔵は馬借町の住人に対して刑場へ数束の薪を火刑のために運搬せよと命じた。これが命じられた時、たまたま町の頭が不在中であったので彼らは確答しなかったが、しかし頭の乙名が帰って事情を知ると彼らを叱りつけた。彼らは一致して大胆にも出来ないと答えた。(末次)平蔵はこれに動揺して、他に方法がないと悟ったので他の場所で探した。』 

キリシタンの処刑を命じられた皮屋達が、火刑のために薪集めを拒絶したり、薪売りも薪を隠した。ハンセン氏病(癩病)者の小屋に火種を探しに行っても、キリシタンであるハンセン氏病者達は自分達が世話になり深く愛していた人々(尊敬する神父達や同胞のキリシタン)を火刑にするための火種を持ち出さないように警戒して火を消していた、と報告されている。 

コリャド著『日本キリシタン教会史補遺』(一三四~一三五頁)より
一六二二年(元和八)八月十九日付け

『第六八章 このころの諸修道会士の日本のおける動静、およびフライ・ルイス・フロイス(Luís Fróis)神父、フライ・ペドロ・デ・ズニガ(Pedro de Zúñiga)神父と同僚の殉教について』

ルイス・フロイス神父、ペドロ・デ・ズニガ神父、ホアキン・ディアス平山、他日本人

十二人が処刑された事件
『犯罪のかどで誰かを死刑に処さなければならない時のこの仕事は皮屋のものですが、しかし彼らは応じなかったので、娼婦の町に住み働いている異教徒にこれを命じたのです。長崎の市で常時薪を売っている者も、囚人を火刑に処すために薪を集めていることを知り、このような悪事のために出してはならないと、所持していた薪をすべて隠してしまいました。(長崎)奉行の一人(末次)平蔵は市のキリシタンの一人の捕使に対して、上述の囚人達に関する仕事と連絡係を命じました。しかし捕使は、私がキリシタンであることはすでに周知のこと、すでに何度も説明しましたように、悪魔の手先となるような人間ではありません。それゆえ、他のことを御下命なされるのであれば致しますが、信仰に反する仕事に関する件ならば御勘弁下さい、と答えました。』 

コリャド著『日本キリシタン教会史』(一四○頁)より
『(火刑の)執行人達が近くにいた癩病者の小屋に火種を探しに行っても見出せなかったのは(このような生きた有効な説教、そしてこのような絶好の機会を一層長引かせようとする)主の摂理でした。なぜなら、キリシタンである癩病者達は、深く愛していた人々を火刑にする道具を家から持ち出されないよう警戒して火を消していたからです。』 

レオン・パジェス著 『日本切支丹宗門史・中巻』(第七章 二一三頁)
『処刑の準備は、前夜、娼婦の町に住んで、この人々の用をしていた異教徒によって調えられていた。これは、皮剥職人の普通の役目で、日本では、一番下賤な階級であった。然るに、彼らは、大部分がキリシタンであったために、それを断った。』 

『編年差別史資料集成』第六巻、近世部落編一
「聖ロザリオ管区並びに日本国に在る聖ドミンゴ修道会の勝利」三
『大日本史料』第十二編之四五(一八九~一九○頁)は、コリャド著『日本キリシタン教会史補遺』から引用されている。 

キリスト教徒の処刑にあたり、刑場の準備をする「皮剥職人」も、処刑場の準備を嫌った。

『また、薪を運搬すること、並びに刑場を準備する事を任務とする賤しき人々、即ち皮剥職人の群れも、この機に臨みて、かくすれば生命を失う危険に身を委ねつつも、その職務を執行する事を欲せざりしを似てなり。薪を弘く商う薪炭商人達も、その節之が買い取られざる様、薪を隠匿せり。一捕史の如きは、(末次)平蔵より或る種の任務に就くべき命を受けたるも、我はキリスト教徒なり、されば、デウスの教えに背くが如き事を為す能はず、他の事柄を命ぜられんには、恒の如く服従すべしと述べて、これを回避せり、それ故に法官等は遊里に居住せる異教徒達を使役するの已む無きに至り・・』

『数人の癩病を患う貧民が己の齋すべき火を消し去り足れば・・』 

一六一三年(慶長十八)六月四日、キリシタン禁令が発布され、全国でキリシタン狩りが始まった。迫害を逃れ、追放された貧しいキリシタン達は山の奥深くに逃げ込んだ。徳川家康が全国の金銀山保護のために定めた法律、『御山例五三条之事』があり、そこには一種の治外法権が認められていたため、貧しいキリシタン達にとっては、山深き地は信仰を守りながら貧しくても生活できる安住の場所であった。小倉の郊外、南に位置する田川郡香春町採銅所付近も、豊前、豊後、筑前、筑後のキリシタン達の格好の隠れ家だった。 

香春町におけるカクレ(潜伏)キリシタンの記録
約二百年後の、一八二九年(文政十二)田川郡香春町光願寺に於いての「宗門改めの記録」には、男女合わせて二,八七一人(男一,四八八人、女一,三八三人)、像踏み申す分七九三人、像踏み申さず分二,○七八人とあり(金田手永大庄屋六角文書七八~九『年々記録』)、絵踏みをしなかった者(隠れキリシタン)の数が圧倒的に多い。 

いかにこの地方に隠れキリシタンが多かったかがこの記録からも分かる。細川忠興もこの事実を把握していて、次男興秋を隠すために香春町採銅所に不可思議寺を作っている。このことからも、細川忠興が意識的に息子興秋と小笠原玄也一家を、隠れキリシタンの多いこの地域に隠していたことが理解できる。 

反面、表向き、徳川幕府に対しては、細川忠興の一六一四年(慶長十九)一月二二日の御書を見ると、『くるす塔(十字架)を始め、伴天連の墓、国内打ちつくすべく候。企救の郡(きくのこうり)の分は右馬介(長岡)奉行を出して念を入れくずさすべく候。残りは郡奉行に申し付くべきを候事。』とあり、特に田川周辺・採銅所・呼野辺りの企救郡が名指しで厳しく取締りの対象となっている。 

フロイス(Luís Fróis)著『日本史一○ 西九州篇Ⅱ』第二部四四章 二三八頁

ルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida)の死去、大村および長崎での幾つかの出来事について

『長崎のキリシタンたちは、自費でもって、非常に清潔で立派なミゼリコルジア(慈悲の組)の教会を建てた。彼らはデウス、ならびにキリスト教に関する知識をますます深め、それらへの関心を高めていたが、本年は特に、キリシタンたちには良い感化をもたらし、日本では新奇なことから異教徒たちを大いに驚嘆させるような数々の催しを始めた。ミゼリコルジアの組長、および組員たちが決められ、その家で集められた寄付金は、貧乏な寡婦や孤児、病人、その他の貧しいひとたちに配布された。そこの教会のためには立派な飾りが施され、教会は独自の規則を持ち、旗や墓地を有し、組員たちが死者を葬る時や行列に参加するときに用いる衣服も備えられていた。(ミゼリコルジアの組員たち)は貧しい身ではあったが、慈悲の業や慈善事業を好んだので、村落の外れに癩病患者たちの家を作った。ミゼリコルジアの二人に組員がその家の世話をした。この病気に冒された者に対して、人々はあまねく嫌悪と拒絶の感情を抱いていたから、そのような仕事に従事することは、日本人の性質から言っても、この上のもなく忌まわしいこととみなされていた。』 

小笠原玄也たちは、香春町採銅所付近の被差別部落から、一六三三年(寛永十)十二月、肥後、山鹿郡鹿本町庄村の「泉福寺」周辺に移ってからは、付近の被差別部落(御宇田村・古関)が、玄也達の慈善事業『慈悲の組』の活動対象として考えられる。(参照、熊本県未解放部落史研究第一集、第二集) 

推論
豊前に於いてセスペデス神父の下、伊東マンショ神父とカミロ・コンスタンチオ(Camillo di Costanzo)神父が指導して教会の修道士達、同宿達、看坊達が、信徒達の組織(信徒組織・コンフラリア)を中心に慈悲の組(ミゼリコルヂア)を組織して、貧しく蔑(さげす)まれた被差別部落の人々、及び、被差別部落の近くで生活を営んでいたハンセン氏病(癩病)患者達を訪れて、彼らが必要としている物、物質的には薬、癩の特効薬とされていた大風子油や包帯などの医薬品、彼らの住まいを極力清潔に保つように努力した。 

又、穢多・非人と蔑(さげす)まれて人間扱いをされない傷ついた被差別部落の人達の疲れた心を慰め、精神面の悩みを聞き、キリストによる慰めを与え希望を抱かせた。それゆえ、人間として最下級の人達、価値なき人達という烙印を強制的に押された被差別部落の人達や打ち棄てられたハンセン氏病患者達がキリストの教えに耳を傾け、キリスト教に生きる希望を見出し、来世の神の国では人間として平等に生きるという喜び、神を讃えるという思想に心動かされて、自分の罪を告白して信仰を受け入れてキリシタンになっていった。 

伊東マンショ神父は一六○八年(慶長十三)から一六一一年(慶長十六)に掛けての短い四年間だったが、この豊前地方の救癩活動、貧困に対する援助活動を指導した事実、死刑囚達に対しての宣教活動、孤児達の保護救済活動等、これらの事実をイエズス会年報の中から読むことができる。 

今まで伊東マンショ神父の活動として知られてはいなかった救癩活動、貧困に対する援助活動の事実。四○○年前、一六○○年初頭(慶長年間)に於いて、すでに伊東マンショ神父が指導して救癩活動の先頭に立って献身してこのような救済活動をしていたことは驚くべき歴史的事実であり、後世に伝えていかなければならない。

歴然とした士農工商の階級制度が確立され存在した徳川時代初期、その階級制度から強制的に締め出され差別された社会の底辺に生きる被差別部落の人達に、神の下の平等、自由、博愛を掲げて手を差し伸べ救済活動を実践していった小倉教会のセルケイラ神父、伊東マンショ神父、及び、当時のキリシタン達の生き方を今一度、真摯に考えなければいけない。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?