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考え過ぎの落とし穴

ここ数年は複雑なことを受け入れることを意識しています。

僕は子供の頃から考えることが好きでした。理系科目が好きだったのは分解すると短い美しい”真理”のようなものにたどり着く感覚があったからです。

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このシンプルな式でニュートン力学的宇宙の全てを説明できてしまえるということにとても魅力を感じました。

もちろんニュートン力学では世界は説明できないように、世界も全く複雑なものだったわけですが、今でも何かの問題を分解してシンプルな解を求める癖があります。

例えば環境問題

再生可能エネルギーで初めて聞いたとき、全く意味がわからなかった。だって、太陽エネルギーや全ての自然エネルギーは人間が消費しているのに再生可能ってどういう意味なの?化石燃料だって地球から生まれた有機物の状態なのに循環の外側からきたかのような印象に違和感があった。

SDGsも含めて環境問題対策は、”意味とかいいからとにかく覚えろ”みたいな受験のための勉強をさせたれている感覚がありました。本当に豊かな人生とは何かが大切であるはずなのに、「とにかく勉強しとけば幸せになれるから」みたいな。

僕は環境問題は突き詰めれば地球のキャパシティと速度の問題だと思っている。ひとりひとりがどんなにゴミを出したり二酸化炭素を出そうが、ゆっくりな速度であったり例えば全人口が10分の1であったとしたなら、多分地球に対して大したインパクトにはならないと思う。

逆もしかりで、どんなに身の丈の生活をしたとて、人間が増える限り環境負荷は大きくなっていく。

これは結構ヤバくてディープエコロジストの思想です。彼らは核戦争でもなんでもとにかく人類の人口を10分の1の適切な範囲まで減らすべきだと考える。核による環境汚染の負荷なんて地球の寿命を考えれば短い期間であると言います。(まさに風の谷のナウシカ)

僕は人間という視座から抜けた時にここまでたどり着いてしまいます。

例えば差別の問題

僕は男として生まれ男性という自我を持ち、セクシャリティとしても女性が好きです。僕はこの時点で男性と女性を明確に分けて考えている。好みの女性のタイプもある。そして人間と猫を分けるし、猫と牛とイルカと鯖も分ける。コンピューターとネトウヨと石とSNSも分ける。

差別とはなんであろうか。

男と女、日本と海外、自然と人工、

言葉で区別された世界で平等とはなんであるのか。

考え過ぎると行き詰まることがたくさんあるのがこの世界です。行き詰まるとそこから前に進めなくなります。

量子力学が意味わからないことを証明するように、この世界も複雑すぎて解を求めることはできない。地球から戦争と差別と環境破壊がなくなった次の日に隕石が降ってくるかもしれないし。それくらいのデタラメ感は受け入れていかないと何も行動を起こせない。

ゼロリスクもありえないように、全てにおいて善もない。行動には色々な副作用があって、微積で些細なことを切り捨てて考えるように、現代社会は前に進んできた。

では前に進むためにはどうすればよいのか。

プラスチックを減らすことがどれほど環境保護に貢献できるのかはわからないけど、ブラスチックを減らして環境負荷を軽減したいと思う人の感情は絶対に肯定できる。

農薬が人間の健康にどれほど悪く影響するかは変わらないけど、人の健康を思って育てた農家さんの営みは尊く絶対に肯定できる。

美味しいという絶対的真理は存在しなくても、食べる人の幸せを願い丁寧な仕事をするその作り手の営みは尊く、美味しいという真理を信じることができる。

そういう身近なことに力点を置くことができれば、客観的な正しさじみたものから解放されて前に進むことがきると思います。

どんな場面でも仲間を守るということは必ず正しいと信じたい。

トロッコ問題における”4人の命”と”1人の命”

僕はもし”1人の命”が仲間であったとするなら、その命を助けるように心が働くじゃないかと思う。そう定義付けなければ行動を起こせない。

ニュートン力学はニュートン力学的宇宙でしか正しくないし、ユークリッド幾何学もそう。僕らの世界にも前提条件となる定義が必要なんだと思う。だから人類は文明以前より宗教を生み出しているわけで、複雑な世界を受け入れための言い訳が必要なんだろうと思う。

こんなことごちゃごちゃ考えるまでもないですかね。

汝隣人を愛せよ

本当に言葉そのままの意味なんでしょうね。




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