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人間と記憶と外部装置

将棋AIには過去や未来という時間の概念が思考に影響しないそうです。常にいま目の前の盤面の最善の一手を打つ。

それに対して人間は過去というものにどうしようもなく影響を受ける生き物で、目の前の盤面に対してその前の一手や過去に打った筋などの一貫性が生まれると言います。これは個性といえるのかもしれません。

今しかないAIに対して、人間が人間である根拠はその過去があるということであり、どうしようもなく過去に問わられてしまう、だからこそ人間といえるのだということ。

過去を美化、正当化するために今に向き合えないことを含めて人間であり、記憶の中にある美しさを精一杯表現しようと努力する人間はまた美しくあるように感じます。

時間という概念は本当に興味深いです。

先日観た「椿の庭」という映画は”場所”と”記憶”についての物語でした。

過去とその記憶が”その人間”の証であるして、場所(家)が記憶の外部装置の役割をした時にどういう問題が発生するのかというのが主題であったように思います。

物語においては、人間の死をきっかけとして場所の外部装置としての価値が生まれ、さらにその場所(記憶の外部装置)が失われた世界では、その主体は生きていけないということが描かれていました。

一方で、僕の最も過去の記憶の外部装置はすでに失われています。実家も建替があったし、おじいちゃんの家も建て替えられています。田んぼと草原が広がっていた実家周辺はすべて住宅またはコンビニに変わりました。学校には高い塀ができている。公園の遊具は撤去されている。

これは現代に生きる多くの人が共感できることではないでしょうか。

では僕らはどのように記憶を保存してゆけば良いのであろうか。今は若いから重要な記憶のしまってある場所を思い出せるかもしれないし、人との思い出は、その人との間に保存ができているとも思う。

それでも、頭からこぼれ落ちる記憶はあるはずで、景色の変化とともに取り戻せないものとなっているのだと思う。そうであるならば、僕らは記憶なきAIに近づいてゆくのではないだろうか。

このような考えは、持ち家か賃貸かという経済合理性でしか語られない議論の浅はかさを気づかせてくれるものだと思います。

時の流れとともに記憶を普遍的なものに保存する努力が僕たち人間が人間であるために必要なのではないだろうか。


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