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筑波大学附属聾学校同窓会創立130周年記念祝賀会で

10月10日(月)

あと5日。筑波大学附属聾学校同窓会創立130周年記念祝賀会は、2021年に予定されていた。コロナ禍により延期となった。2022年に実施することが決まり、記念式典の案内があった。僕は当然参加するつもりでいた。参加するかどうか迷っている同窓生がいたのも事実。同窓会が筑波大学附属聾学校に与えた影響はとてつもなく大きい。小学部に在籍していたときに入学式や卒業式でみた同窓会長の「たった一人だけの手話による語り」が、大きく僕たちに影響を与えている。だからこそ、記念式典の重みはとても大きいと思う。ろう教育の未来を支える同窓生たちが集う式典!

10月15日(土) そして、記念祝賀会へ

この日は晴れていた。どんな人たちが集うのか期待を胸に、ホテルニューオータニ(紀尾井町)に足を運んだ。実は、午前用事があって、30分遅れての到着だった。会場はすでに熱気がムンムンしていた。多くの同窓生が集まっていた。ホテルのスタッフに、席番号カードを提示すると、指定の場所まで案内してもらった。その途中、テーブルには懐かしい顔ぶれがいくつもあった。全国で活躍している著名人も何人かいた。先輩だったり、後輩だったりする。もっと若い後輩たちはあまり顔を知らないが、やはり、僕らの世代のご子息が附属ろう学校の生徒だったりすると、その子の世代の人たちについて詳しくなってしまう。「silent」で後方支援している、ろうの女性(インフルエンサー)も、その一人である。彼女の父が同窓会副会長を担っている。そのほか、同窓会理事の中には僕と同級生だった人が3人いる。うち二人のご子息がやはり、ろう者で附属ろうの出身。そのご子息も、ビデオ編集などで名を馳せている。ドローン動画もあったというが(私は30分遅れてきたのみ見る機会がなかった)、これも、やはり僕らの世代の子息の作品だという。世代交代が始まったのだと考えると感慨深いものがある。

ホテルニューオータニと附属ろうとの関係

同窓会からショートムービーの出し物があった。筑波大学附属聾学校は、明治13年に篤志家による楽善会によって創立された訓盲院を全身とする。吉田松陰等長州ファイブに大きく影響を与えた、宇都宮黙霖谷三山らは共に聴覚障害を有する思想家であり、長州ファイブの頭の中に、「聴覚障害を有する子どもたち」のことがあった可能性がある。附属ろう学校創立者の一人として山尾庸三の銅像が附属ろう学校の玄関に飾られている。公立でありながら、実は篤志家らによって創立された由緒ある学校が、附属ろうなのである。英国視察に行った福沢諭吉(慶應義塾大学創立者)も山尾庸三(のちの東京大学工学部創設者)も同じことを考えていたのである。なお、山尾庸三が盲人よりも聾啞者に傾倒していたのは、尊敬する吉田松陰の弟、杉敏三郎が聾唖者(事実)であったことによるとも言われている。今年、ホテルニューオータニで記念式典を行ったのであるが、起伏の多い土地である。実は、紀尾井坂付近は、訓盲院予定地であり、また大久保利通が暗殺されたところであった。訓盲院が、聾者のための施設であれば、そのままこの地が附属ろう学校になっていたはずである。しかし、盲人にとっては起伏の多いところは生活が厳しいということで、文京区小石川に決定されたという経緯がある。そのようなショートムービーは面白かった。これも、同窓会企画として、附属ろうの歴史、その背景、イギリスと日本との関係を分析している。なかなか面白い。ちなみに山尾庸三は、全日本ろうあ連盟の全身である日本聾唖協会の名誉総裁に就いている。また附属ろう同窓会顧問にもなっている。

附属ろう同窓会に招待された他校の同窓会関係者たち

私のテーブルは、自分が同窓会顧問ということもあり、なかなかいいテーブルについた。そのそばのテーブルを見ると見知らぬ人たちが座っていた。受付でもらった席順名簿を確認すると、他のろう学校同窓会の関係者であった。かつての東京都ではろう学校がたくさんあった。今は4校に減っているが、4校以上の同窓会関係者が参列していたのである。附属ろう同窓会は、同じろう者の仲間として、同様の組織を大切にし、また多くのろう者の憩いの場を守ろうとする姿勢が窺える。ろう学校は違えど、同窓会は、自分のろう学校を愛し、そこで共に学んだ仲間達が心の拠り所になることを知っている。年に1回、多くの聾学校では文化祭が催される。その時、同窓会も文化祭を手伝いに行くのである。文化祭というものは児童生徒が作り上げるというのが建前である。しかし、同窓会が文化祭を支援することは、同時に児童生徒が同窓会に集う先輩諸氏を目の当たりにし、自分の将来の可能性を広げて行くいい機会にもなる。そんな同窓会がある、ろう学校はいつまでも強いのである。

所感

あっという間に、130周年式典が終わった。125周年記念式典の時に実は僕も参加した。125という数字はキリがいいのか、クラスの同級生たちがたくさん集まったし、多くの恩師たちが参加していた。そのうちの恩師は、125周年記念式典で再開した時に「今日会えて嬉しかった。冥土へのお土産ができた。もう会うことはないと思うよ。来てくれてありがとう。」と言っていた。僕はそれを否定したが、130周年記念式典にはもうきていなかった。125周年記念式典の2年後に旅立って行ったのである。恩師は幼稚部の先生でもあり小学部の先生でもあった。

125周年記念式典(2016年)で恩師と

そういう意味では、同窓会そのものは同窓生の行方を確認するとともに、恩師たちとの交流の場でもある。ろう学校で過ごしたのは高々15年。卒業後、その3倍以上を社会の荒波の中で生き抜いた僕らにとって、やはり憩いの場となり得るのである。ろう学校がしぶとく生き残るのは、同窓会があるからであり、同窓生たちがどんどん新しい後輩たちを学校に送り込んでいる。そういった流れが途絶えた時、ろう学校の役割は終わりを告げる時なのかもしれない。附属ろうから聞こえる人たちが集う学校にインテグレーションした人も、同窓会員になる資格が与えられる。このように同窓会も生き残るため、いろいろな工夫をしているのである。ろう学校に行ったことがない、ろう・難聴者の場合はどうなるのであろうか。どこに心の拠り所を求めるのか。これがすごく気になる。

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