『俺が風鈴とドライヤーを戦わせてる間に友人が結婚した』

「ぼくさ、結婚したんだよね」
と言われて思わず時刻を確認する。午前4時である。こいつも俺も、夜が明けてもなにもすることのない身の上であるから、思ったより進んでいる時計に驚くことはない。

かといって驚くような話でもない。ああこいつもか、と思っただけだった。淡々とキルを取り、ゲーム終了を待ってコントローラーを置く。たっぷりと伸びをしてから「そりゃめでたいな」とマイクに向かって発してみる。

「ちょっとはびっくりするかと思ったのに」
「そんなことでエイムがずれると思ったら大間違いだ」
画面では勝利を祝して俺のキャラクターが踊っている。さすがに疲れたのだろう、ヘッドホンの向こうでうーっという唸り声とともにかすかに椅子がきしむ音がした。
「休職中の身分で結婚とか、会社が聞いたら怒るかな」
「毎日深夜までゲームしてる時点でな」
「ごもっともだね」
彼女はいいけど、彼女の両親はそういうのよく思わないんだろうなあ、いやもう奥さんか。籍はもう入れてきたんだ……適当に相槌を打ちながら一度だけ見かけたその彼女を思い出そうと努力する。なんだか地味な印象で、とにかく真面目そうに見えた。学生時代はブラスバンドをやってたとかで、家にティンパニがある、というエピソードしか思い出せない。

「明日の予定は?」
「夜までバイト、23時」
「労働者は大変だねえ」
「……まさかお前ヒモになるのか?」
あの地味な彼女なら文句も言わず健気に働きそうだ。
「そんなわけないじゃんおとうさん、あ、義理のほうね――に殺されちゃうよ小学校の教頭なんだってさ」
と並べ立てる声はわずかに興奮しているようにも聞こえた。
「じゃ、また明日も0時集合ってことで」
「0時はギリギリだっての……まあせいぜい昼間に練習しておくんだな」
「明日こそは勝つから、見てなって」
そんな決意を適当にあしらって俺は通話を切り、一息ついた。シャワーを浴びなければならない。

立ち上がって脱衣所の扉を開くと、ドアノブに掛けてある風鈴が小さく鳴る。俺は思い立った。

コンセントに差しっぱなしのドライヤーを手に取り、電源を入れるとドライヤーは熱風を吐いて大声で叫び出す。そいつを風鈴に向けてやるとつる下がった短冊が痙攣したように小刻みに揺れる。俺はその挙動に満足した。

しかし風鈴は思ったよりも静かなままだ。風を集中させすぎると風鈴の「舌(というらしい、ぶら下がっている小片のことだ)」がフチに押し付けられて音を立てるまでもなく痙攣し続けるようなのである。

俺は携帯を取り出した。そして「俺が風鈴とドライヤーを戦わせてる間に友人が結婚した」という文とともに10秒足らずの動画を投稿し、浴室に入った。

風呂上がりに髪を乾かしながら携帯を見やると期待通り、いくつか通知が届いていた。ログイン履歴を見られていたのだろう、件のゲームで知り合ったフレンドが残した「かなしいなあ」のコメントに「こんな時間までゲームしてるやつにロクなやつはいないんだよな」と返信する。
「思ったより風鈴負けてて草」
「あまりにも無益なエネルギー」
そんなコメントを読みながらベッドにもぐる。無益という言葉が気にかかる。無益なことが好きだと思った。そしてあいつ、恋愛とは、結婚とは、なんと有益なことをしたものだと考えた。目覚ましはかけなかった。

目が覚めるともう夕方で、昨日の投稿はさらに少しだけ広がりを見せていた。その中のいくつかに返信をする。俺は気分を良くして少し早めに家を出た。無益なことは素晴らしい。益がなくてもともと、益があったら丸儲け。俺はさらに無益なことがしたくなった。

道端で信号機の交換をやっていた。俺は立ち止まってその様子を眺め出した。作業員が不思議そうにこちらを見やるが気にしない。地上におりた信号機は思ったより巨大で、LEDの粒粒に迫力がある。俺はそれを数えてみた。

青信号は192個のLEDの集合体だということが分かった。黄と赤も数えてみたかったがさすがに時間が迫ってきたのでその場を後にする。バイト先へと向かいつつ「友人が結婚したというのに俺は信号機のLEDの数を数えるなどしている」という投稿をした。「192個でした」というのは返信の形でぶら下げることにした。少し擦りすぎかも、という気持ちも浮かんだが、到着したとたん、忙しそうな店長から早めに入るようお願いされたので携帯をロッカーに放ってエプロンをつける。終わりも遅くなるかも、と思ったがあいつは待たせておけばいい。俺はいそいそと持ち場へ着いた。

しかしそこから客足はぱたりと途絶え、結局早く入った分早上がりして0時には準備万端となってしまった。ヘッドセットをつけ、ログインを済ませると8時間前からログインしているあいつから「Ready?」とメッセージが来る。

「なーにが『Ready?』だ、カッコつけよって」
通話をつないであいさつ代わりに俺は言う。
「今日は昼から練習してるからね、もうキルされる覚悟はできたかな?」
「そんな長くやってよく気持ち悪くならないな」
ゲームスタート直前、見慣れた画面が暗転し自分の顔が映る。いつまで俺はこのゲームをするのだろう。そしてこいつもいつまで――。

そんな考えも一瞬のこと、スタートしてしまえばコントローラーを動かすだけだ。目まぐるしく変わる状況に応じて、脳が絶えず信号を送り続けるのがわかる。信号に従って手を動かし続ける。あまりにも無益なエネルギー、転用すれば人生を動かすかもしれないエネルギーが空転している。それは俺にとって心地よいことだった。

「一日やそこらの練習で勝てるようになっちゃ世話ないよな」
ようやく納得したのか、午前3時。あきらめたような声が耳に届いた。
「そらそうよ、こっちは無益のスペシャリストだからな」
「無益?」
「俺は無益なことばかりして生きていきたい」
俺はコントローラーを置いて昨日の10秒足らずの動画を送ってやった。

「これ昨日終わった後?」
「そう」
「よくご近所さんに怒られなかったね」

あ、でもそう、これってあんま音出ないんだよね。

そう聞こえた俺は耳を疑った。
「やったことあるのか」
「まあね、なんか去年の夏に奥さんが風鈴買ってきてさ。でもこれ下から吹き込むようにするとすっごいうるさいから試してみてよ」
俺は無言で席を立った。その気配を察したのか外しかけのヘッドホンから、ほんとにヤバいよ、ご近所さんに……という声がする。

脱衣所に響いたあまりの騒音にすぐにドライヤーの電源を落とす。パソコンの前に戻ってヘッドホンをつける。うるさかったっしょ、ここまで聞こえちゃってるもんね、とあいつが言う。

俺は話を変えた。
「さっきバイト行くときに信号の交換やっててな」
「あー最近よくやってるよね」
「暇だったから青信号のLEDの数を数えてみた」
「ん、ちょっと待って思い出す」
「え」
「なんか200個いかないくらいじゃなかったっけ、奥さんに昔一緒に数えさせられたわ」
192、と俺がこぼすや否や、あーちょっと待ってって言ったのにとのんきな声を出す。俺は閉口するしかなかった。

「やー、うちの奥さん結構変わっててさ、なんかぜんっぜん意味のないこととかたまにやるの。この前はマンホールってティンパニとどっちが大きいと思う?とか言って近所のマンホールの直径計りに行ったりしてた」
ま、面白いからいいんだけどさ、ちなみにマンホールってティンパニの並びでいうとちょうど真ん中に置く大きさらしいよ、と笑いながら言う声を俺はもう聞いていなかった。

「『俺が風鈴とドライヤーを戦わせてる間に友人が結婚した』とか言っている間に、その友人夫婦はとっくにその戦いを終え、マンホールのふたをティンパニと比べるなどしていた」という事実が耐えがたかった。無益なことは無益な人間の特権であるべきで、結婚するような人間に奪われることは屈辱以外の何物でもなかった。

最後にもう一回だけやろう、といって勝手にゲームをリスタートさせられる。暗転した画面に映る自分の姿を見て、じきにこのゲームでも敗れるであろうことを直覚した。そしてもう、無益さえ残らない空っぽな自分を想像し、身震いした。時刻は四時になろうとしている。明日もバイトだ、早く寝なければと思った。

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