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空港の金属探知機で出てきたらおもしろいもの

たとえば、

……………

 彼が空港の保安検査員として働き始めたことにはさしたる理由がなかった。生活上の必要以上の理由がないのだからさしたる理由はないということに間違いなかった。配属された直後、彼の先輩にあたる人物は図表を指し示しながら彼に向かって講義した。
「ナイフとかピストルは没収だ」
「当然ですね」
「あとはベルトとか下着なんかも引っかかる恐れがある」
「聞いたことはあります」
「文房具とか化粧ポーチとかいろんな原因があるけどな、まあやってるうちに慣れる」
「はい」
 その少し強面の先輩は、それからと前置きして
「あと、脳内に1匹の猫を飼え」
 と言った。意味は聞かなかった。彼はまた、はいと言って脳内で真っ白な猫を飼うことに決めた。
 働き始めて3か月ほど、彼は自分がこののち検査員として経験しうる殆どのケースを見尽くしたことを直覚した。ほとんどの人はベルトを外すことには気づくが、ハイヒールに金属が含まれていることには気づかない。背中に張り付いているカイロ(当然ながら鉄が含まれている――)を取ってやることもたびたびだし、カツラの留め具には金属が使われている場合があることを、幸運にも彼は勤務3日目で知った。
 最初は脳と体と表情筋を忙しく手動で動かしていた彼だが、じきにそれらがすべてオートメーション化されていった。そうしてすぐ、強面の先輩が言っていたことを理解した。余裕が出て、余った脳のスペースを、猫がぎくしゃくと歩き出したのである。はじめは真っ白で平板な体をしていた猫も、彼の練度が向上するに従って陰影を手に入れていった。腹をくすぐるより顎を撫でてやる方が喜ぶことに気づいたのはさらにその3か月後で、脳内でたっぷり餌付けされたその猫はあっという間に成猫となり、気ままに脳内を歩いたり、眠ったりするようになった。
 ところで彼には人間の恋人がいた。空港内のレストランで給仕係として働く彼女はとてもおしゃべり好きだった。彼女はその日にどんな人が来たのかちゃんと覚えていて、かつ自分の感情の動きにも自覚的だった。
 曰く、チップの渡し方がエレガントだったから私も真似しようと思うだとか、いくらワインのペアリングに詳しくっても食べ方が汚いんじゃもったいないねだとか、そんなことを飽かず話した。
 彼も初めこそ今日検査でこんなものがひっかかってね、という風に答えていたのだが、脳内の猫の成長と連れ立つようにして、自分の話はしなくなり、彼女の話を聞くばかりになっていった。
「ねえ、もしかして仕事がつらいんじゃない」
「そんなことはないさ、むしろ慣れてきて暇なくらい」
「そうならいいけど、最近あなたから仕事の話って聞いてないと思って」
 まさか脳内で猫を飼っているだなんていえないから、彼は黙っていた。彼女は、きっとおもしろいことがあるはずだからそしたら私に教えてね、といった。

 それから5年が経った。彼はいまだに検査員として働いていた。あの先輩はとっくに辞めて、いまはペットショップを経営しているという。後輩を幾人も迎え、すこし上の立場になった彼は、仕事がつまらないという彼らに向かって「脳内に1匹の猫を飼うといいよ」とアドバイスしたが、冗談として受け取られるばかりでなく、睨まれ、席を立たれることもしばしばであった。
 あの白猫は今も健在で子どもも2匹もうけた。それでも仕事中の彼の脳内は3匹が暮らすにはあまりに広大なスペースを残していた。彼が趣味のボトルシップ製作に興じているときは隅っこでゆっくり寝ているし、彼が暇なときは一緒に遊んでくれるし、こんないいペットはどこを探したっているはずがなかった。
 結婚を機に仕事をやめた彼女は、家から出ずにいる日でさえも相変わらず彼にいろいろな報告をした。
 曰く、今度の郵便局員さんは手紙の入れ方がきっちりしていて気持ちがいいだとか、お皿はこの向きの方が取り出しやすいとか、そんなことを飽かず話した。彼は絶えず話題が湧き出る彼女の口許をほとんど奇跡を目の当たりにするような心持で眺めていた。彼が話すことは今でも仕事以外のことに限られていた。
 そんなある日、彼女は友人と旅行に行くと言い出した。なんでも忙しい友達らしく、一泊二日が限度なのだという。
「そりゃまあ構わないけど、なにも飛行機を使わなくてもいいんじゃないかな」
「私もたまには自分が働いてた場所が見たいじゃない」
 許可をもらった彼女は上機嫌で、早くから荷物の買い出しに行ったり、パッキング始めたりした。
 そして当日、彼は仕事、彼女は旅行に行くため一緒に家を出た。空港で別れの挨拶を済ませると、彼は脳内の猫が起き出すのを感じた。今日は親猫になった白猫がかつて遊んでいたボールを子猫たちにあげてみようかな、ということを考えながら制服に着替えた。
 検査を始めて1時間ほど、いつもより少し明るい顔つきの後輩が近づいてきて耳打ちする。
「奥さん来るの、そろそろじゃないですか」
 人の妻なんて見たってそうおもしろいものじゃない、と同僚たちには伝えておいたはずなのだがそんなことでもここでは一応エンタメになるらしい。ボールの登場に喜んで駆け回る子猫たちを捕まえてなんとか撫でまわしてやろうという脳内とは裏腹に、彼のポーカーフェイスが崩れることはなかった。
 搭乗開始のアナウンスがあると、検査は俄かに忙しくなった。とはいえ慣れ切った作業に今更動じる彼ではない。彼女が来るのだからと脳内の猫には一応おとなしくするよう言いつけて、客をどんどんと流していく。すると最後列に彼女とその友人の姿が見えた。
 X線検査の機械でよく見えないが、彼女は友人を先に行かせると、手荷物や靴、ピアスなどを備え付けの籠に入れ、検査のコンベアに流したところのようだ。機械越しに目が合うとこちらに向かって小さくウインクしてきたので、彼はほかの客の手前、軽くうなずいて返す。機械を作動させている後輩が少しだけニヤついているのがわかる。
 彼女はストッキングで包まれた足底を少しだけ鳴らしながら金属探知機のゲートにゆっくりと進んでいく。我慢しきれなくなった脳内の子猫が駆け出して、ボールに飛びつこうとする。
 すると、探知機がピーッと軽く音を鳴らした。
 正直、予想通りだった。わざわざ最後列に並ぶなんて、自分の仕事ぶりを見るための軽い意地悪に決まっている。彼はそれでも少しだけ自分の口角が上がるのを感じた。
「失礼ですがお客様、なにか金属製のものを身に着けてはいらっしゃいませんか」
 本来チェックは女性が行うが、もう客は残っていないし、後輩たちも自分の妻であることは承知している。彼は彼女に近づいた。
「なにかしら、心当たりがないわ」
「ではすみませんが上着を脱いで、一度ひっくり返してもらえますか」
 彼女の胸ポケットが不自然に膨らんでいるのに気づいていた彼もさすがにボディチェックに移るのは気が引けたので、自分から白状させることにした。袖から腕を抜きながら彼女は、特に何もないはずなんだけどねえ、とか、まさかあれは違うだろうし、とか小芝居を続けている。
 彼女が上着をひっくり返すのと、何か銀色のものが床に滑り落ちるのはほぼ同時だった。それは、二人の間でくるくると回って止まった。
 それは一本のナイフであった。カーキの柄に刃渡り少々の、何の変哲もないナイフが出てきた。
 驚き、一瞬口を大きく開けた彼に後輩が声をかける。その手には何か黒いものが握られている。
 それは一丁のピストルであった。黒いボディに短い砲身の、何の変哲もないピストルをカゴに入れていた。
 彼はとうとう笑い出した。この5年間でいろんな危険物を見てきたけれど、これほど注意書き通りのナイフとピストルを見たのは初めてだ。思えば彼女の様子も可笑しい。なんで「いや全然何もないですけどね」みたいな態度なんだ、ふつうにピストルをカゴに入れるな、せめて服で包んだりしろ……
 彼の笑い声は段々と大きくなり、優に10分は笑い続けた。笑いすぎて検査を継続できなかったから、ほかの同僚たちが彼女を通してくれたらしい。
 その日、脳内の猫は眠り続けた。起き出そうとすると、ナイフとピストルの幻影が彼女たちを眠らせるのであった。

 そしてそのたびに彼は、彼女の帰りを待ち遠しく思った。

……………

ということだったらナイフとピストルが一番おもしろいと思うんですけど、どう思いますか?

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