ヒトは単体ではあくまでもヒトであり人間とは呼べないのだ。

『全ての人が認める共通の世界は存在しない。どのような物や事にも対象領域があるからだ。金星や火星は太陽系に、上司は会社や役所に現れる。何かを対象領域とした場合、それ以外の対象領域が出てくる。太陽系を対象領域とした場合、自分が通っている会社、ゴルフ仲間など別の対象領域が存在することが想定される。世界を対象領域とした場合、世界が現れている対象領域以外にも無限の対象領域が存在することになる。世界は全ての対象領域のことを意味するのでこれは矛盾する。従って世界は存在しないことになるのだ。言葉遊びのようだが、単一の世界という想定に無理があることを明らかにしたのがガブリエルの大きな業績だ。〈たとえば、世界は存在しない、と証明されることで、私たちはようやく世界全体を理解することの不可能性を受け入れる。世界が存在する可能性がまだどこかに残っているうちは、どうしても特定の世界像にしがみつきたくなるだろう。哲学的に論証されることで、特定の世界像を絶対化することの背理を知り、それまでぼんやりと抱いてきた生きがたさの正体がはっきりする。そのことで生の状況はむしろ悪化するかもしれない。というのも、ぼんやりとした生きがたさには曖昧な救済の可能性がついてまわるが、世界は存在しないことが明らかになることで、その可能性は完全に消え去るからである。哲学の凄みはここからで、ではどう考えることができるか、という先の道筋を優れた哲学は示してみせる。世界は存在しないとしても、無数の意味の場は存在する。尽きることのない意味に取り組み続けるのが人間の義務であり、そのほかに道はないのだ、と〉世界が存在しないということを受け入れれば、自分の対象領域だけが真実の世界であるというような独断論に陥ることから逃れられる。同時に対象領域から必然的にもたらされる意味の場は確実に存在する。このような存在を認めることによってポスト・モダン思想の価値相対主義を克服することができる。価値観に転換すれば、絶対的に正しい価値は確実に存在するのであるが、それは複数存在することになる。このような現代実在論によって価値相対主義で失われてしまった倫理が回復される。』

「自分は絶対に正しい」と他人に言うのはホントは可笑しいのだ。ヒトは自分の存在を自分では証明できない。他者や他の事象と比べてのみ自分を自覚できるからである。ヒトは単体ではあくまでもヒトであり人間とは呼べないのだ。

「自分は絶対に正しい」という暴君を黙らせる「ある1つの方法」
『新しい哲学の教科書』
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70170

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