”見守り”という”優しい監視社会”でのバーチャルな自由

『〈最も根本的な問題は、中国は人権について真の理解をしているということだ。人権とは人々の現実の生活と深く関係したものであり、西洋人が構築した純粋に形式化した「人権」ではない。致命的な病(やまい)が流行する中で、カギとなる人権は、生存するということなのだ。もっと広く言えば、一生生きていく中で、最も根本的な問題は、フェイスブックが使用可能かどうかとか、政治家の投票がきちんとなされているかということではない。生命の脅威にさらされた際、生存していける真の能力を持っているかどうかだ。〉~〈 この非常時に我々は、とりわけ重要な2つの選択肢に直面する。第一に、全体主義的な監視社会を選ぶのか、それとも個々の市民のエンパワメントを選ぶのか。第二に国家主義者として世界から孤立するのか、それともグローバルな連帯をとるのか 〉~換言すれば、20世紀末に「勝利」した資本主義勢力は、いまだ最終的な勝者ではない。同様に、20世紀末に「敗北」した社会主義勢力もまた、最終的な敗者ではないということだ。冒頭のグテーレス国連事務総長風に言うなら、まさに「第二次世界大戦以降、最も未曽有の事態が世界で起こっている」――カオスの時代の到来である。』

「”見守り”という”優しい監視社会”でのバーチャルな自由」がこれまでの欧米諸国と同等の価値観で暮らしていたヒトビトの帰着の様な気がする。当然、米の保護下にある日本も同じだろう。

コロナ後の世界…パンデミック収束後に訪れる「新世界秩序」とは
監視社会か、グローバルな連帯か
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71648

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