自然災害大国であるヒノモトの地理的特徴でもあるのだ。

『そもそも、国民に外出禁止や営業停止を強いることは、私権を奪うことである。強制や強要となれば、戦争に突き進んだ過去の苦い経験が、重くのしかかる。戦後に制定された日本国憲法とも齟齬が生じかねない。それが歯止めとなって、罰則のない国民への「自粛」と「要請」で「緊急事態」を乗り切ろうという日本独自の姿勢を貫いている。そう考えると、強制力行使への抵抗から、法律に「要請」しか盛り込まなかった理由もわかりやすい。だが、それだけだろうか?むしろ、「要請」でも日本人は真面目に従うという、日本の歴史に裏打ちされた統治機構側の無意識が働いていたというべきだろう。~そこでは、当時の日本は、第1に黒船来航にはじまる明治維新、第2に1920年代の世界恐慌と軍部の台頭から戦争、第3に敗戦と米軍の駐留、戦後復興に次ぐ、第4の転換期にあると位置づける。そして冒頭において、行政改革の趣旨としてこう記載されている。「われわれの取り組むべき行政改革は、もはや局部的改革にとどまり得ず、日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換することに結び付くものでなければならない。(「行政改革会議」最終報告「はじめに」より)」ここに登場する「日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質」という言葉。すなわち、国がなんでもやってくれるというまさに国家への依存体質であって、国民は統治される側の客体であるという意識が色濃く残っていたことを指している。~その中に「改革の基本理念」として、行政改革からはじまる一連の構造改革を以下のように統括するところからはじまっている。「このような諸改革は、国民の統治客体意識から統治主体意識への転換を基底的前提とするとともに、そうした転換を促そうとするものである。統治者(お上)としての政府観から脱して、国民自らが統治に重い責任を負い、そうした国民に応える政府への転換である。(報告書「Ⅰ 今般の司法制度改革の基本理念と方向 〜 第1 21世紀の我が国社会の姿」より)」ここではっきり「お上」という言葉が記載されているように、国民の統治客体意識とは「お上」に支配されているという江戸時代から染み込んだ国民意識に他ならない。「お上」が平民を守ってくださる、その代わり「お上」から言いつけられたことは絶対である、という統治される側の常識。~統治客体意識の訣別を目指した20年前の構造改革とはなんだったのか。そう疑問になるような、国民の「お上」意識に依存して、この難局を乗り切ろうとしている。だが、それもいずれは「指示」に変わってしまう。罰則はないとはいえ、それに代わる合法的措置も検討されるはずだ。「お上」の仕返しが待つとすれば、その効果はてきめんだ。それでも、あくまで法的には「要請」なのだ。その真意は国民が察しなければならない。~しかも「要請」であり「自粛」であるとすると、国がその損失分を補償する必要もない。東京都は営業自粛に応じた事業者に協力金を支給することをいち早く表明し、他の自治体もこれにならう方向だが、この「緊急事態宣言」が長引けば、それでいつまでも耐えられない。もっとも、事後チェック型の社会であれば、あとで補償を求めて国や自治体などを提訴すればよい。その為に構造改革があったはずだ。』

本来の自由(みずからよし)をあまり好まない国民性は「自然のお堀」に守られた国土とも関係していると思う。ただ、この「自然のお堀」は自然災害大国であるヒノモトの地理的特徴でもあるのだ。

日本人が「お上の要請」に真面目に従う根本意識
統治客体意識からの脱却は20年以上叫ばれたが
https://toyokeizai.net/articles/-/347122

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