ホントに悲しく残酷な状態にあるヒトほど現実をなかなか認められず思わず笑ってしまう事すらある。
『普通、他者から認められること、褒めてもらうことが楽しみだ、と考える人が多い。周囲から「いいね」をもらわなければ意味がない。周りに無視されるのは地獄だ、と考えている人が、最近の若者には多いとも聞く。これは、「面白い」とは、大勢に受けるものだ、という認識である。この価値観の人が面白いものを作るには、周囲の声を聞き、それに反応して試し続けるしかない。自分の思考や技術ではなく、周囲の空気を読むことが重要となるだろう。研究者の価値観は、これとまったく対極にあるともいえる。面白いと感じるのは自分であり、面白さを生み出すのは、自分の思考だ。~「知る」ことの面白さには、もっと別の要素もある。ただ知るだけではなく、知ることによって、なにかに「気づく」という体験があると、さらに劇的に「面白い」ものになるだろう。「知る」と「気づく」はどう違うのか。「知る」のは新しい情報だが、「気づく」のは、これまで自分が知っていたことと「関連づける」行為が伴う点が異なる。~興味深い「面白さ」は、とても幅広い。なぜなら、人それぞれ、いろいろなものに興味を持っているからだ。例えば、恋愛に関心がある人なら、恋愛を扱ったものが「面白い」と感じる確率が高くなる。どんな恋愛なのか、さらに掘り下げていくと、もっと興味深い「面白さ」に出合うかもしれない。したがって、具体的かつ詳細になっていくほど「面白さ」は強くなる。一方で、それを「面白い」と感じる人が減っていく。鋭くとがった「面白さ」は、それだけ人を選ぶ。逆にいえば、大勢に向けて、誰にも受け入れられる広い「面白さ」は、その分どうしても鈍いものになりがちである。とくに、最近ではちょっとしたことでクレームを招く。「これを見て悲しむ人がいる」とか、「教育上、子どもには見せられない」などだ。煙草を吸っている人が出てくる、というだけで全否定される場合だってある。そういったクレームを避け、当たり障りのないものを目指すと、ほとんど「面白くない」ものになることは確実だ。古来、多くのユーモアは、少なからず差別的であり、戦争や死を扱ったブラックなものだった。差別を笑い飛ばしているのに、「差別で笑うとはなにごとだ」と真剣に抗議されれば、たしかに答えようがない。だが、そこが面白かったことは事実であり、大勢の人が笑ったことも、歴史的事実なのだ。人が死ぬことをジョークにして、人間は笑えた。それで苦しんでいる人もいるじゃないか、という主張は正しいし、間違いなく正義だ。でも、正義では笑えない。こういった意味では、「面白さ」の一部は、明らかに反社会的である。それらは、隠れて楽しむしかないだろう。さて、ここまで述べてきた幅広い種類の「面白さ」に共通するものは何か、と考えてみると、これらはいずれも、それを得ることでなんとなく自分が成長し、あるいは元気になれる。そして、結果的に自己の満足を導く。そういうものを摂取することが「面白い」と感じるように、人間の脳はできているようだ。脳が「面白い」「面白そう」と感じなければ、それらを得ようと行動を起こさない。それでは、生きていくうえで支障がある。生物の基本的な志向は、「生存」であるから、「面白い」は、実は生きることにリンクしている。「元気が出る」というのも、脳が「面白そう」と感じた状態といえる。したがって、人生をどう歩めばいいのか、どんな生き方が面白いのか、といった方向へ話が及ぶことになる。結局、生きるとは、「面白さ」の追求でもある。「面白い」ことを見失ったら、生きていけないのではないか。』
ユーモア(humour)とはHuman(人間)が語源ともいわれている様に最も人間らしい言動なのだろう。そのユーモアを表現したモノがジョーク(joke)であり絶妙なジョークが言えるヒトには感心する。もともと人間とは自然界では最弱の部類に入るイキモノであり、悲惨な事や残酷な事に遭遇する確率は多かったはずだ。その苦難を笑い飛ばすための知恵がユーモアでありジョークと成ったのだ。今はそれすらも不謹慎と諫める風潮になっているがホントに悲しく残酷な状態にあるヒトほど現実をなかなか認められず思わず笑ってしまう事すらある。暇な似非インテリが当事者の「お気持ち察します」的な大義名分を掲げた不謹慎狩りは世の中を息苦しくしているだけの様にすら感じてしまう。あぁ、とても残念でならない。
SNSに疲れた現代人に贈る「面白さ」の本質論
万人ウケする「面白さ」がすべてではない
https://toyokeizai.net/articles/-/312947
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