見出し画像

【短編小説】屋敷森奇譚

 戦争は終わった。

 今、俺は故郷にいる。自分の命を確かめるように、長く静かに息を吐き出す。身体に溜まっていた邪気みたいなものが、重ったるい夜の空気にトロリと溶けて行く。両手を広げて、思いきり息を吸う。硬直した肋骨周辺の筋肉が、緊張から解き放たれて久々に自由を取り戻す。

(いいぞ。俺は生きてる)

 湧き立つような喜びが、腹の底から身体の外に溢れ出る。もう一度、息を吸う。湿った土と、むせ返るような緑の匂いが肺の中に流れ込んでくる。

(あぁ、懐かしい匂いだ。ここは、屋敷森か……)

 町は燃え尽き、黒と灰色の瓦礫以外なにも残らなかった。それなのに、この一画だけは、瑞々しく豊かな樹々が何事もなかったかのように生い茂っている。

(生き残ったんだな。お前も)

 平らな町の真ん中に突如現れる鬱蒼とした森。昔は、豪商の屋敷があったらしいが、商売が傾き家屋は朽ち果て、手入れの行き届いていた庭は狸やイタチやヘビが棲み付く森となった。いつしか人は、この広大な土地を「屋敷森」と呼ぶようになり、バケモノが棲むと忌み嫌って近づかなくなった。

(くだらねぇ。バケモノなんているもんか)

 栄華の残骸を見て見ぬ振りをし、放ったらかし、他人事を決め込むためには「バケモノ」扱いが妥当だったのかもしれない。まぁ、ガキの頃の俺にとっては、それが返って好都合。町で盗んできた物を食ったり隠したり、逃げ込んだりするためには、この森は格好の隠れ家だった。
 特に夜は、森全体が巨大な黒い生き物のようにうごめいて、ガキなりに凄まじい力を感じて震えたものだった。

(二十年振り…… いや、もっと長く離れていたか……)

 戦禍に見舞われたにも関わらず、屋敷森の力は衰えていないらしい。葉鳴りがザンザんと降ってくる。人間の手に似た巨木の葉が、あちこちで手招きするように激しく揺れている。俺は、傾いた門扉を蹴倒し屋敷森に踏み込んだ。

 伸び切った雑草を踏み分け進む。ヒソヒソと生き物の気配がする。枯葉が積み重なり腐った土くれが、呼吸をしているかのように動いている。
 ふいに、鉄砲を担いでジャングルを彷徨っていた日々がよみがえった。鳴り響く銃声。爆音。叫び。血の匂い。

(やめろ、もう終わったんだ!)

 息苦しい。立ち止まって夜空を見上げた。揺れ動く木立の隙間から、作り物のようなバカでかい満月が空いっぱいに広がって俺を見下ろしている。

(なぁ、俺、生きてるか? 生きてるよな……)

 月は、何も答えない。

「お帰り!」

 背後からの素っ頓狂な声に殴られ、俺は「わぁ!」と叫んで前のめりに倒れた。

「やっと会えたね!」

 四つん這いのまま恐る恐る振り向くと、貧しい身なりの小学生くらいの子どもがひとり、笑いながら小さく飛び跳ねている。
「な、なんだ、てめぇ!」
 俺は怒鳴ったつもりだったが、信じられないほどの小さな声が、口からこぼれてコロコロと子どもの足元に転がった。

「ビックリした? 大丈夫? 立てる?」

 子どもはクックと笑いながら俺の肩に触れる。手の感触がジワリと生温かい。反射的に手を振り払う。
「あっ!」
 子どもは動揺したらしく、雀みたいにパタパタと両手を振っている。俺はすぐさま立ち上がろうとしたが、足腰が情けないくらいに震えて何度かよろめいた。心臓の激しい連打が耳にまで届く。

「ごめん、なさい」

 顔を歪め、首をすくめて子どもは立っている。

(泣くんじゃねえぞ。面倒くせぇから)
 俺は、ようやく立ち上がり息を整える。

(おい、生きてるか? あぁ、生きてる)

 子どもはケロリと笑顔に戻り「ねぇ、ねぇ、あっち、見て!」と、薄ぼんやりと明かりが灯っている場所を指差した。目を凝らす。廃墟になった屋敷が浮かび上がって見える。

「ここね、僕の隠れ家」

(なんだ、こいつ! ここは、俺の隠れ家だ。いや、待て。それより、こんな小僧が、ひとりで? 夜中に?)

 俺は事態がのみこめないだけでなく、身体が凍り付いたようになって全く動かせない。もう一度、屋敷の方向に目を凝らすと、窓が壊れてむき出しになった板張りの廊下に、すでに小僧はちんまりと腰掛けて俺に向かって(おいで)と手を振っている。

(いつの間に?!)

 移動する音がまったく聞こえなかった。ザッと総毛立つ。

(バケモノ……)

「ねぇ、ここ、座って」
 小僧は両足を交互に振りながら、朽ちた床を手のひらで軽く叩いている。動けない。小僧は小首をかしげると、硬直する俺に構わず喋り出した。

「ずっと待ってたんだよ、ここで。やっと、お休みがもらえたんだね」

(休み? そんな訳あるか)

 どこからか漏れてくる灯りと、満月の光が小僧の顔を青白く浮き上がらせる。十歳くらいか。薄いシャツは伸び切り、大きめのズボンは、膝に継当てがある。バサバサな髪。やせっぽちの身体。ただの貧相な小僧。

「お、お前、誰だ?」

 ようやく俺は、尋ねることができた。声が、のどに絡んでしわがれている。小僧はうつむいて答えた。

「わからないの?」
「……わからん」
「ふ~ん」

(なんだ、こいつ。ゲンコツくらわすぞ!)
 身体が小刻みに震えてくる。これは、恐怖なのか、怒りなのか。

「僕を、よく見てよ」

 突然、小僧の声が俺の腹の方から聞こえてきた。顔を下に向けると、俺を見上げている小僧と目が合った。真っ暗な底なしの空洞みたいな目。悲鳴が口から飛び出しそうになるのを、息を呑み込み辛うじて抑える。

「い、いいか。俺は、お前なぞ知らん。戦地から、戻って来たばかりで、気が立ってる。失せろ!」

 のどから絞り出すように、一言一言区切りながら、小僧に放った。小僧は俺を見上げたまま、赤ん坊のように無垢な声音で尋ねた。

「戦地って?」
「……は?」
「戦争?」 
「……」
「いつの? どこの?」

 嘘だろ。ガキだって知らんはずがない。燃えたじゃないか。町も人も、全部! 誰だ? お前、誰なんだ。

 ふいに、風がおこった。周囲の樹々が騒ぎ出し、草むらが渦を巻いて立ち上がる。小僧は風に髪を弄ばれながら、辺りをチロチロと伺っている。逃げようとしたが、身体が重い。土の底に沈みそうだ。膝から崩れ落ちながら、夜空を見上げた。うごめく樹々の向こうから月が見ている。冷たい目で、俺を見下ろしている。

「母ちゃん!」

 小僧が叫んだ。視線の先を追うと、廃墟が薄青く発光して女の影が見えた。影がスルスルと近づいてくる。助けて。誰か、誰か、助けてくれ!

「母ちゃん、こっち、こっちだよ!」

 俺は尻餅をつき、金魚のように口をパフパフと動かした。もう声すら出せない。唐突に、犬の鳴き声が聞こえた。うごめく草むらの中から小型の犬が飛び出し、俺の周りを高速で走り回っている。なんだこれは。なんなんだ。首輪替わりにぼろ布を首に巻き付けた汚ねぇ犬。やめろ。やめてくれ! 

「あれ?」

 このぼろ布、見覚えがある。俺がガキの頃に、近所の野良犬に結んでやったものに似ている。

「お前…… まさか、ボン? ボンか?」

 犬は、ちぎれるかと思うほど尻尾を振って飛び上がる。
「ボン! ボンなんだな!」
 俺は、ボンを強く抱きしめる。

「そうか、ボン! あぁ、いい子だなぁ。よしよし。会いたかったよ」

 ボンが顔を舐める。ボンの温もり、ボンの匂い、ボンの息遣いが俺の身体から重さを減らして行く。

「ボンだ。これは、俺の犬だ!」

 俺が顔を上げると、すぐ目の前に若い女が立っていた。

「犬は飼えないって言ったじゃないか。もう、困った子だねぇ。こんなに懐いちゃって。仕方ないねぇ。いいかい。お父ちゃんには、私から言ってあげるから。その代り、約束だよ。責任持って、ちゃんと面倒みること。いいね」

(か、母ちゃん…… なんで?)

 俺は混乱して、口を開けたまま母ちゃんの顔を見ていた。母ちゃんもボンも、とうの昔に死んだ。なのに、元気な頃の母ちゃんが、今の俺よりもはるかに若い母ちゃんが、確かにそこに立っている。
 ふいに、バラバラと音を立てて涙がこぼれた落ちた。化かされているとか、死んだとか、生きているとか、そんなことはどうでもいい。苦労に苦労を重ね、病気になってやせ細り泣きながら死んでいった母ちゃんが、今、俺の側で笑っている。

「ほら、男の子がこんなことで泣かないの」 

 母ちゃんの手が俺の頬に触れる。柔らかい。温かい。あぁ、母ちゃんがここにいる。俺は泣いた。ガキ見たいに、声を上げて泣いた。

「母ちゃん、母ちゃん、会いたかった。ごめんね。助けてあげられなくて、本当にごめんなさい」

 泣きじゃくりながら、母ちゃんに手を伸ばす。母ちゃんが俺を優しく抱きしめる。ボンが、俺たちの間でそっと尻尾を振っているのがわかる。母ちゃんの手が、俺の背中を優しくトントンと叩いてくれる。

「俺、悪いこと、たくさんした。ごめんなさい。ひとりぼっちで、どうしていいのかわからなくて、許して……」
「謝らなければならないのは、母ちゃんの方だよ。寂しくさせて悪かったね。お前は、良い子だ。本当に良い子だよ。もう大丈夫だからね」

 母ちゃんの声が子守歌のように、懐かしくて甘い。俺は、母ちゃんの腕の中で溶けそうになる。

「ここにいるから、ゆっくりおやすみ」

 身体の重みが消えた。母ちゃんに抱かれたまま夜空を見上げると、でっかい満月が、ますます膨らんで空一杯に拡がっている。月の光に照らされた森は、夜も昼もなく痛いくらいに眩しい。俺は今、母ちゃんと月の光に抱かれている。

 少し目を動かすと、半分透明になった小僧がゆらゆらと紙のように揺れながら母ちゃんの後ろに立っていた。

「お前…… さっき、俺の母ちゃんのことを、母ちゃんって呼んでたな」
 小僧は、黙っている。

「お前、もしかしたら…… 俺か? ガキの頃の」
 小僧は、ほんの少し口元を歪めて笑う。

「どうりで、辛気臭ぇガキだと思ったぜ」

 小僧は、俺を見ている。寂し気で不安そうで、今にも押し潰されそうな、小さな生き物。こんなに頼りない存在だったんだな、俺は。

「ボンを飼うことを、父ちゃんは許してくれなかったでしょ。僕ね、ここで隠れて飼ったけど、狸かイタチかなんかの動物にやられて、すぐに死んじゃった。憶えてる?」
「あぁ、思い出した。そうだったな」
 すっかり忘れていたが、あの日、死んでしまったボンの残骸を見つけて、俺は泣きながら穴を掘って埋めた。そう、屋敷森はボンの墓場でもあったんだ。

「僕、ずっとここにいたよ。ボンのお墓を守ってたの」

 小僧の声が遠くから聴こえてくる。俺は何だか激しく疲れてしまい、草むらの上に身体を横たえた。眠い。たまらなく眠い。母ちゃんの手を探す。

「さぁ、もう、おやすみ」

 月の光に溶けるように、母ちゃんの声もかすかに聴こえた。俺は、ゆっくりと呼吸を繰り返す。目を閉じると、さまざまな光景が浮かんでは消えて行く。

(何ひとつ報われなかったなぁ。見捨てられ、放ったらかしにされた俺は、屋敷森みてぇだ)

「なあ、母ちゃん、俺を産んで良かった? 俺が生れて、少しは嬉しかった?」

  誰も、何も答えない。
 見上げると、月はますます膨らんで、無音のまま激しく破裂した。月の欠片が降って来る。チラチラと光りを反射しながら、粉雪みたいに舞い降りてくる。

(きれいだ…)

 土に草むらに屋敷森の樹々に、月の光が降り積もる。小僧もボンも母ちゃんも、もうどこにもいない。俺もじきに、光に埋もれて見えなくなってしまうのだろう。

「おい! お前、しっかりしろ!」
「生きてるか? どうなんだ!」

 緊迫した男たちの声が聞こえた。

「機銃掃射にやられたみたいです」
「あぁ、もうダメだな」
「置いて行くんですか?」
「助からんヤツは放っておけ!」
「いや、でも」

(戦争?)
 小僧の、甲高い声が聴こえたような気がした。

(まだ…… 終ってないのか?)

「我々は退避だ! 退避!」
「まだ生きてます。おい! 生きてるよな! 立て!」

 誰かが、俺を担ぎ上げている。

(戦争? いつの?)
(今だよ。西暦、二千二十…… あぁ、いつだっけ?)

「生きてるか? 見捨てないからな! こいつ、ガキの頃からひとりで苦労してるんです。生かしてやりたいんです。生きろよ!」
 
(母ちゃん、誰かが、俺を背負って走ってる。すげぇな。小僧、屋敷森から、出られるぞ。生きられるかな。何か、笑えてくる)

 月が粉々になって、屋敷森に降り積もる。
 後は、ただの、白い光が……

記事は、基本的に無料で公開していますが、もしもサポートしていただけるのなら、こんなに嬉しいことはありません。励みになります。今後とも、よろしくお願い致します。