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東日本大震災から4年半、現地で目にした被災地の復興状況

2011年3月11日に発生した東日本大震災。あれから4年半以上が経過した2015年12月に、岩手県上閉伊郡大槌町を訪れました。

千葉県で暮らしてネットで目にする情報、耳にする情報からは、復興は順調に進んでいるものだと思っていました。仮設住宅が少し残っていたり、プレハブでできた商店や事務所が建ち並んでいるくらいになっているというのが、私の描いていたイメージでした。ところが大槌町に着いた私の目の前に広がっていたのは、真っ平らな景色でした。

城山から望む夜明けの大槌町

住宅や事務所、商店があるどころではありません。2015年12月現在、いまだ宅地造成中だったのです。聞いたところによると、津波被害を受けなかった高さまで土を盛り、新たな宅地として開発中とのこと。ただ土を盛ればいいわけではなく、宅地として十分な強度を得るまでには時間がかかります。建設より前の段階、まだ土木工事の段階だったのです。

自分が勝手に描いていたイメージとの大きなギャップに、私は大きなインパクトを受けました。そこで大船渡にある「道の駅 さんりく」まで一旦南下し、そこから三陸海岸沿いに北上してみることにしました。

海岸沿いの道路を走っていて気づいたこと

ダンプカーの多さ

大槌町を含む三陸海岸沿岸部の広い地域で宅地造成を進めているので、土を満載したダンプカーも多く走っています。対向車を見ていると、大げさではなく、数台に1台はダンプカーではないかと思えました。

砂埃の多さ

海が近いというのに、空気にべたつきを感じなかったのも発見でした。冬だからというのもあるかもしれませんが、それより影響が大きいと思われるのが、一帯を覆う砂埃。宅地造成のためあちこちで土を掘ったり盛ったりしています。通りの多い道路では、ダンプカーからこぼれた砂を通行するクルマが巻き上げます。一帯が、土煙に覆われていました。走行中なので写真には撮れませんでしたが、トンネルの中はマスクが必要なのではないかと思うほどの土煙。透過が整備されているにもかかわらず濃霧のような視界の悪さで、ヘッドライトなしには走行できませんでした。

上に掲載した大槌町の写真では空気は澄んでいますが、これは交通量が多くなる前、早朝に撮影したためです。この後で工事が始まり、多くのダンプカーが走り回って土煙を巻き上げていきます。

大槌町役場も被災、大槌小学校跡へ移転した

大槌町役場前に建てられた大槌小学校閉校記念碑

津波被害の教訓を残す標示類

道路を走っていて目に留まったのが、津波被害があった場所を示す標識です。道路を走っていると「ここから過去の津波浸水区間」などの標示があり、津波警報時には通行しないよう呼びかけられています。川などの地形によっては海からかなり離れた場所にも同標示が見られ、津波被害の大きさを実感することになりました。

交通量が多くクルマを停めて写真を撮れなかったので、標示に関する詳細は国土交通省東北地方整備局仙台か宣告同事務所のWebサイトに掲載されている「国道6号・45号 - 津波情報板・津波情報標識新設のお知らせ」をご覧ください。実際に掲示されている標示は、「津波情報板・標識の紹介」ページにわかりやすく写真で紹介されています。

帰路は原発の残したものを目の当たりに

今回は東北道を北上して大槌を目指し、帰路では常磐道を通って戻ってきました。カーナビのおすすめに従っただけなのですが、常磐道からも震災が残したものを数多く目にしました。やはり運転中だったので写真に撮ることはできなかったのですが……。

それらは一言でまとめれば、原発事故による放射能汚染の痕です。

高速道路上で見かけた標示には、「ここから帰宅困難区域」や、「国道6号線二輪車走行禁止」などがありました。また、何キロかおきにその場所の放射線量を示す大きな電光掲示板が設置されており、場所によって0.1マイクロシーベルト毎時から1マイクロシーベルト毎時を示していました。この区域を駆け抜けるのに1時間ほどかかるとはいえ、通り抜けるだけなら気になる線量ではないようですね。

帰宅困難区域の標示がある辺りでは、周囲に人気が無く、田畑は荒れ放題。数年間奔放に育ったであろう、背の高い雑草が主たる住人でした。動いている人間を見かけたのは、除染作業員の方々だけ。高速道路から見える範囲にはクルマが走っているのも見かけませんでした。

三陸と福島の違い、違和感のもとは

三陸海岸でも福島でも東日本大震災の残した傷跡を間近に見て、感じてきた訳ですが、どうも同じ時間を経過した、同じ災害をもとにした被害とは思えませんでした。その違和感を胸に、色々なことを考えながら自宅に向けて運転を続けました。

自然の成すこと、人の成すこと

違和感を引き起こす要因のひとつとして考えたのは、自然災害のあとなのか、人災のあとなのかという違いなのかなということでした。三陸海岸ではいまだ復興中のその姿、その範囲の広さを実際に目の前にして、自然災害の持つ力とその脅威の大きさを実感しました。土地は真っ平らになってしまっていますが、そこには人々が活動しており、なんというか自然の風景のひとつという気がするのです。

一方で福島で見た光景は、人がいなくて草が生い茂る自然そのものの景色だったのですが……人がいるはずの場所にいないことで、私の目にはとても不自然に映りました。人が人を追い出したから、そこには住人がいないのです。荒れ果てた光景を作っている要素は雑草や手入れされていない田畑など自然のものですが、そうなるようにしたのは、住人を追い出した人間なんだなと感じてしまいました。

メディアを通じて見えているもの、見えていないもの

これは、メディアに携わる私自身も反省すべき点なのですが……、東日本大震災の傷跡としていまだに取り上げられるのは放射能汚染の話題が多いように感じます。SNSなどで話題になるニュースもそうです。福島第一原発から何キロの範囲に人が戻れるか、住めるか、という話題はネットやテレビで目にします。それに比べて、三陸海岸にいまだに戻れていない人たちが大勢いるということ、あれだけ広大なエリアが宅地造成さえ終えていないという現状はあまり話題になっていないように感じます。私だけかもしれませんが、ここまで広いエリアがいまだ復興途上にあるということを知らずにいました。

そう言う意味で、福島で見た景色は、メディアで見たり聞いたりしたことのある景色でした。東京から近いからメディアの関心も高いのかもしれません。日本全国の電力事情にも関わる問題なので、話題として取り上げられる機会も多いのかもしれません。しかしその話題に偏った報道に触れることで、震災が残した他の問題は解決したかのような気になっていたことに気づいたのです。

実際には、そんなことはありませんでした。

地震、津波に襲われてから4年半が経っても、住民票を大槌町に置いたまま盛岡など内陸部に仮住まいしている方々がまだ多くいるそうです。震災復興は、まだ現在進行形の問題です。一過性の話題として忘れないこと、それがまず支援の第一歩ではないかと思います。

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