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教育データ取り扱いのポイント:「教育データ利活用ロードマップ」を踏まえて

この記事では、教育者や研究者、教育事業者が、教育データを扱う上でのポイントを、先日デジタル庁が公開した「教育データ利活用ロードマップ」を踏まえつつ、国内および海外の法規制、教育現場と教育データの関わりの観点から、私なりの整理を試みます。


問題意識

ICT(情報通信技術)を活用した教育が広まることによって、教育の過程で蓄積される様々なデータ(以下「教育データ」)を活用し、これまでになかった形の教育を実現することが期待されています。先日、デジタル庁より、「教育データ利活用ロードマップ」が公表され、政府として教育データをどのようなミッションの下で利活用するかについての提言がなされました。

私がこのロードマップを見たのは、デジタル庁がパブリックコメントを募集していた昨年11月でした。私なりにかなりの衝撃を受け、共同研究者と議論をしていたのですが、年明けになって、なんとプライバシーフリークカフェ(以下PFC)でこの件を取り上げると聞き、喜び勇んで聴講したところです。

なお、このロードマップに先行して出された「教育データの利活用に係る論点整理(中間まとめ)も必読です。

私は、大学で学習管理システム(Learning Management System: 以下LMS)の開発運用に携わりつつ、教育工学分野の研究者として、細々と教育データを活用した学習分析(ラーニング・アナリティクス)の研究をしてきました。そのような立場のため、教育データの利活用は、私の仕事や研究とどうしても切り離せないテーマです。そこで、PFCの熱い議論で学んだ知識を整理しつつ、国内および海外の法規制、教育現場と教育データの関わりを踏まえて、教育者や研究者、教育事業者が、教育データをどう扱うべきなのか、私なりにポイントを整理をしたいと思いました。

なおこの「整理」は、現状これを守っていれば大丈夫、という法解釈やガイドラインを示すものではなく、むしろこれからはこれが重要だ、ここが問題になるであろう、という展望(要は私見)をまとめたものです。そのため、国内の法制度を踏まえると過剰な部分がありますし、そもそも主観を伴いますので、その点ご承知おきください。

教育データ取り扱いのポイント

  1. 「データ主体」の権利を保つ

  2. データ利活用による「不利益」を減ずる

  3. データ利活用を「選ばない場合」の権利を保つ

「データ主体」の権利を保つ

教育データは個人情報です。教育目的に教育機関(学校、大学等)が、教育事業者が教育データを取り扱う際には、教育データを生成する生徒や教師の権利を保護することが大切です。
ロードマップや有識者会議の議論を拝見する限り、教育データの有効活用が議論の中心で、教育データの利活用により生徒や教師、学校関係者にどのような価値を提供するのかが不明瞭と見受けられます。そして、教育データの利活用の「影」の部分、すなわち教育データの利活用によって、不利益を被るかもしれない生徒や教師に対する眼差しが欠けているように思われます。そもそも、教育データ利活用の恩恵は、第一に学ぶ・教える個人に還元されるべきものであり、「誰もが、いつでもどこからでも、誰とでも、自分らしく学べる」社会は、その後に自ずからやってくるものです(順序は大切です)。

我が国の個人情報の保護に関する法律では、個人情報取扱事業者は、個人情報の利用目的を特定し(15条)、利用目的を制限し(16条)、個人情報を適正に取得し(17条)、本人に利用目的を通知すること(18条)を定めています。

例えば学校や大学がLMSで生徒や教師の学習データを取得する際には、あらかじめシステムの利用目的を定め、利用者に通知する必要があります。そしてその利用目的の範囲を超える利用を行う場合には、前もって同意を取ることが必要です。

EUにおける一般データ保護規則(GDPR)では、生徒や教師など教育データを提供する人々を「データ主体(Data Subjects)」、教育機関などを教育データの利活用目的と方法を定める「データ・コントローラ(Data Controllers)」、教育事業者などを教育機関に代わってデータを処理する「データ・プロセッサー(Data Processors)」と定義しています。

この「データ主体」の権利を保つことが肝要です。生徒と教師に対して、利用目的と共にデータを誰が処理するのか、なぜデータを処理するのか、データ・プロセッサーがデータをどう処理するのかについて開示しすることが必要でしょう。データ主体が希望した時には収集したデータを渡す、あるいは削除する(忘れられる権利の確保)も必要と思われます。

データ利活用による「不利益」を減ずる

ここまでは他の領域におけるデータの取り扱いと似ていますが、教育データの教育現場における扱いが難しくなるのが、ここからです。GIGAスクールの整備で全ての生徒が一人一台端末を持ち、(現時点では一部の授業とはいえ)学習データが絶え間なく記録され活用されうる状況において、厄介な問題が生まれます。その一つが、教育データの分析が全ての生徒と教師に必ずしも役立つとは限らない、という点です。

どこまでデータを集めるか?

例えば先の有識者まとめでは、生徒のテスト結果やドリル等の学習記録だけでなく、生徒の属性情報や出欠情報、健康観察情報や日常所見情報、さらには保健室利用情報など多岐にわたるデータが、教育データの事例として挙げられています。これらの情報を分析することで得られる結果は、生徒が教室でどう学んだか、教師がどう教えたかという部分を超える、生徒が学校外含めどのような生活を送っているかまでを推定するものになり得ます。

分析結果を活用できるか?

PFCでやまもとさんが指摘されていた通り、昨今学校の役割が肥大化する中で、こういった分析で得られた結果をどのように教育現場で使いこなすかが大きな課題です。こういった分析を生徒の状況把握に役立て、限られた先生の時間を効率的に生徒の学習支援に割り当てるのか、もしくはデータの収集に多大な労力を費やして、分析結果が活用されず仕舞いに終わるのかは、現場の余裕と裁量、人員などのリソース次第です。IT化の要諦は効率化ですが、せっかくのITが生徒や教師の手間を増やすだけで終わってしまっては残念です。また、教育学習に直接関わらないデータを取得することが、本来の目的に照らして適切なのか、「データ主体」の権利を尊重して慎重に検討することも大事でしょう。

「マイクロ差別」をどう防ぐか?

また、PFCで高木さんが指摘されていた通り、学校におけるいわゆる「マイクロ差別」が起こりえます。例えば、蓄積された過去の生徒のデータ分析から、あるタイプ(クラスタ、塊)に属する生徒、ある学習行動パターンを持つ生徒は、学習成果が低い傾向にある、という結果が得られたとします。その結果を現在の生徒に当てまめると、生徒は推測が当てはまるグループと当てはまらないグループの2つに分かれます。その分析を使って生徒指導をする時、当てはまる生徒には教師から(例えば学習の進め方について)妥当なアドバイスが与えられたとしても、当てはまらない生徒には教師からよくわからないアドバイスが与えられ、さらに教師がその「理由」を、「過去のデータがそう示しているから」と伝える以外に説明できないという、教師からすると少々苦しい状況が生まれます。
この問題への対処法としては、データ分析の結果はあくまで「予測」であり、その予測を利用するか否かは教師の裁量に委ねたり、予測を生徒の指導に用いる場合には補助的な情報に留めることが考えられます。

教育の平等に配慮した「個別最適化」は?

また、学習分析の結果から生徒の興味や理解度に応じて、生徒のレベルに応じた適切な教材を提供する、ということは可能です。私も同種の介入を自主的に受講するオンライン講座で実践研究で試したことがあるのですが、この「適切な教材」を「一部の」生徒だけに与えるという介入は、広い意味での教育機会の平等を考えた時、厄介な問題でした。すなわち、本人たちをデータ分析で良くも悪くも「選別」し、教える側の考えで特定の教材へのアクセスを制限する、すなわち学び方を縛ることになりうるからです。
この問題への対処法としては、教材自体は全ての生徒にオープンにし、個々の生徒には優先して学ぶべき教材を指し示す、という方法が考えられます。

このように、学習データの分析結果をやみくもに用いることは、教師の指導の妨げになったり、生徒の多様な学習機会を奪うことになりかねません。そのような「不利益」を減ずるような方法を、あらかじめ教育現場に広めることも重要と思われます。

データ利活用を「選ばない場合」の権利を保つ

これは1つ目のポイントと関連しますが、仮に生徒や教師が教育データを利活用することを選ばなかった場合の対応方法をあらかじめ検討する必要があります。すなわち、「データ主体」である生徒や教師は、学習データをデータ・コントローラに提供しないという選択を取ることができます。この場合、学習データを提供する、しないに関わらず、教育の質を同様に担保することが求められるわけです。

これも教育現場にとっては非常に厄介な問題です。例えば同じクラスに、LMSを使って日々ドリルに取り組む生徒もおり、紙のドリルを使って学ぶ生徒もいる場合、教師は双方に対して適切な学習支援をすることに迫られます。これまでは全員に紙のテストだけでよかったものを、LMSを使ったテストも行いつつ、GIGAスクール端末を横目に紙のテストも配るというような授業運営をすることになれば、教師には採点含めて相当の負担がかかることが想定されます。

実際の現場ではこういった運用はなかなかやりきれないので、データ・コントローラである学校としては、生徒や教師、保護者にICTを活用した教育を受けてもらうよう、懇切丁寧にお願いすることになります。この時に、システムの利用目的や方法、データ・プロセッサーである教育事業者との契約等について、しっかりと説明することが不可欠でしょう。しかしそれでもなお、学習データの提供を拒む生徒や教師がいた場合には、その要望に応えなくてはいけません。コントローラーである教育機関としては、教育データの利活用を強制することはできませんので、こういった様々な形での「個別最適化」が求められる部分も、学習データの利活用を目的にした学習環境の変化がもたらす難しさと思われます。

おわりに

教育データの利活用では、「社会の改善のためにデータを吸い上げて、得られた成果を広めていく」という啓蒙的な発想が時として首をもたげます。本来的に学習は学習者のもの、教育は教育者のものですから、「データ主体」の権利を大切にして、「学習者と教育者を手助けするためにデータをお借りして、得られた成果をデータと共に現場にお返しする」という姿勢が大事だな、と改めて感じました。

義務教育と高等教育の違い、機密性の高い個人データの扱い、コンテキスト外の利用など、まだまだ議論できていない論点は多数あるのですが、これからも教育実践研究を進めつつ、学習データに関する見識も深めていきたいと思います。


追記(2022/01/25)
補論として、教育データの「一元化」と「匿名化」について書きました。


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