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頑張れニッポン

オリンピックは柔道の軽量級から始まり、選手の誰かが、まずメダルを獲得してニュースやスポーツ番組でひとしきり盛り上がる。その盛り上がりで初めて私も観戦意欲が湧いてくる。いつものことなのだが、ただ、今のオリンピックは昔と比べて今ひとつ熱くなれない。この冷めてしまった世間の空気と自分の気持ちはオリンピックだけに限らない。サッカー日本代表も同様にずいぶんとクールに観戦するようになってしまった。理由はわかっている。それはCMが象徴している。かつてはオリンピックに協賛する企業はこぞってオリンピック用のCMを制作し、15秒の最後の3秒は「頑張れニッポン!」のサウンドロゴが共通で流れていた。オリンピック期間中は、多くのCMがニッポンを応援していたから、テレビをつけていれば否が応でも気持ちは盛り上がる。でも今は、頑張れニッポンを声高に叫ぶ人が、少なくともテレビの中に見当たらなくなった。もちろん、日本人選手がメダルを獲得すれば嬉しい気持ちになるにはなるが、その一方でメダルを獲得することができなかったとしても「よく頑張った」と褒め称えなければならない気持ちになる。つまり、簡単に気持ちの切り替えができる、言わば他人事なのだ。バスケやバレーの実況中継で、時々熱く絶叫するアナウンサーの声も、どこか演技じみて、白々しく感じる。オリンピックを盛り上げようとする機運があるのはわかるが、それが「頑張れニッポン」では決してない。敢えていうなら「頑張れオリンピック」という意味不明な盛り上げ方なのだ。

昔は日本代表の戦いはほぼ自分の戦いのように感じていた。だから、勝つと狂喜乱舞し、数日間は気持ちよく過ごすことができるし、負けると心から悔しく、虚脱感やら怒りやら、そんなネガティブな気持ちに支配される。自分ごとだったのだ。だから、負けた時は、簡単に気持ちを切り替えて「よく頑張った」と称える気持ちにはなれない。日本の選手たちの戦いと勝敗の行方は、日本人としての自分の誇りと直結していた。

柔道二日目。阿部詩が2回戦で敗退した。負けた時の彼女の取り乱し方に対して、SNSでは非難を浴びせる声が散見された。曰く「日本人として恥ずかしい態度」。もちろん称える声もあった。「本当によく頑張った、感動をありがとう。」どちらもピンとこない。もちろん同胞としての私たちの受け止め方に正解なんて存在しない。ただ、負けた時は、阿部詩選手が取材を拒否したように、口をつぐんで何も言わない、でよいのだと私は思う。どうせ、言い訳とか愚痴とかしか出てこないのだから。負けた同胞の苦痛に追い討ちをかけるような非難をするのは、日本人に非ざる愚劣な振る舞いと思う。


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