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遠い記憶…その三…

今回は小学校の低学年の記憶。写真のように低学年時は、校舎木造だった。なので時々ワックス掛けとかもやったし、普段は箒で掃き掃除🧹の後,雑巾で水拭きをした。漫画みたいだが,廊下の端から端まで雑巾掛け競走をして遊んだりもした。この年代男子も女子もない歳なので,妙に女子軍が強かったのが記憶にある😖

 一年の時はエンドウ先生と言って若い体育会系の女性の先生で、よく怒られたから怖い😱イメージが強い。ただし水泳を教えるのが上手で、自分は泳ぐ事が好きだったことと重なり,この先生が嫌いになる事はなかったと思う。
 当時、この歳では同級生の中で泳げる子はほとんどいない為、授業では『息を止めて顔を水に付けて〜1,2,3はーい』を繰り返しやった記憶がある。自分は、すでに顔に水つけることを苦にしていなかったので、「何秒息を止めていられるか」なんて事をやって、その時間を過ごした。

 ところが、問題発生!体育の授業なので、得意な泳ぎ方で泳げるだけではダメ。クロールは?バックは?バタフライは?自分は父に教えられた平泳ぎこそ得意だったが、それ以外は、一からの状態。みんなと同じ事を同じようにやってあとは自由プールの時間(放課後)に自己流で練習した。そんなふうにして六年生には全部の泳法で100mを泳げるようにはなった。今して思うと、あの頃にもう少し丁寧に教えてくれる人が近くにいたら、後々、もっと楽しめたかな。なので今でも、平泳ぎがフリー(クロール)より速いという変な泳ぎになってしまった。
 平泳ぎ以外の泳ぎ方を、意識して練習したのは30年後、自分の息子(水泳少年団所属)が六年生の時に親子で競泳することになった時。負けたくない思いで動画見て勉強した、随分勘違いしていたから、小学校の頃の泳ぎはさぞかしひどいものだったろう。(ちなみにこの時の競泳は、言うまでもなく惨敗でした)

 あの頃から水が怖いと思うことは無かったので、そこは自身の親に感謝すると共に我が息子達にも伝えて来た。ところが、奴らプール育ちなので足がつかない/下が見えない海で泳ぐのは怖いそうで、ここは失敗。自分は親には足のつかない競泳用のプールで教えられたから、泳ぐのに床は不要で、足が着くか着ないかなんて考えたこともなかった

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この先生は、確か途中で産休を取られて代わりの先生がいた気がするが記憶が薄い。

二年と三年はミヨシ先生。
 ちょと年配だけど、とーっても優しい女性の先生だった。親よりも年上だったから,親からも頼りにされていた気がする。とにかく優しいことだけを覚えている。一年のエンドウ先生が怖かった反動かも。調子が悪かったりするとおんぶしたり抱っこしたりされる子もいた。三年で❣️子供もそれが嬉しかったりする。イタズラすれば、当然叱られる、が叱り方が優しいので怖くない。でも子供の方も学ぶ。同じことで叱られ心配されれば、この先生に心配かけてはいけないと思うようになる。自分も随分心配かけたと思う
 ある時、大掃除かな、教室と廊下分ける窓の上段に登り、最初は窓を拭いていたが、そのうち天井を擦って漫画キャラクタの絵を描いていたら、三好先生に見つかった。先生、真っ青になって座り込んでしまった。慌てて降りて近寄って行ったら、『驚かすようなことはやめてちょうだい❗️落ちたらどうするの』って。ふざけて絵を描いていた事を叱れると思ったのに、自分が落ちて怪我する方を心配してくれていた。このあとは、先生に心配させないようにしようって思った。
ちなみにキャラクターはウルトラマン。下から見上げたら、ウルトラマンも怒っているように見えた🥲

低学年の頃はまだ、遊びの中心は近所の幼馴染(幼稚園の延長)か、学校内での同級生との遊び。なので学校にいる時間が必然的に長かった。学校にあった鉄棒やジャングルジムを使ったローカルゲーム(要は自作ルール)でよく遊んだ。毎日暗くなるまで遊んでいたと思う。

勉強の話は一切書かなかったけど、宿題だけはやりましたよ。
あと親戚の叔父に貰った図鑑も、よく見ていたな〜動物、昆虫、星🌟、植物とあと特殊車両の絵があった、乗り物図鑑も好きでした。〇〇童話集とかもあったけど挿し絵が怖くて読むことはなかった記憶が。挿し絵が西洋風って子供にはちょっと怖いですよね

以上、低学年の学校生活でした。
次作は高学年編。学校から外に出ます‼️

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