心に届く音
ピアノというのは不思議な楽器です。ピアノは鍵盤を叩くとだれでも音が出ます。でも、同じ鍵盤でもその叩く速さ、深さ、指の上げ方によって違う音になります。どういう和音にするか、それぞれの指の強さをどれくらいにするか、演奏の緩急をどうつけるかなど無限の演奏の仕方があります。
いいピアノは指の動きにぴったりあわせるかのように指に吸いついてきます。すると弾いている方も快感を覚え、いつもできないような指の動きができることもあります。反対に、よくない、もしくは手入れされていないピアノは、まるでいじけているかように動きがぎこちなくなります。
その日の演奏者の心の状態によってもかわります。ピアノを弾いて、今日は精神的につらいんだなあなんてわかる場合もあります。
30年ぐらい前のことだったと思いますが、当時務めていた小児科の病棟の一角にグランドピアノが置いてありました。忙しい毎日でしたが、ピアノに触れるとストレスも消えていきました。
だれもいないその部屋で弾いていると一人の女性が入ってきました。僕は空気のわずかな変化を感じたのですが、そのまま黙って弾き続けました。その方は私の背後にあるソファにすわってじっと聴いてらっしゃいました。
演奏が終わって、しばらくの静寂。
それからどのくらい時間が経ったかわかりませんでしたが、その方がやっと口を開きました。振り返って、顔を見ると数日前に入院したお子さんの母親でした。
そのお子さんは重い心臓病でもう手の施しようがなく、今はなんとか安定しているもののもうしばらくすると死に直面しなければならない状況でした。
その日を待つだけの絶望の毎日。どうやって一日をすごせばいいのかわからなくなって歩いていたらふとピアノの音が聞こえてきて・・・
「やっと、少し心が晴れたような気がします。ありがとう」
僕は言葉を失い、ただその方を見つめるだけでした。ピアノは僕の代わりにその方の心に語りかけていたのでした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?