アロマンティックと欠けている”すき”
話していて楽しくて、仲良くなった男性にお付き合いを申し込まれるとき。
私はなぜか、その告白にYesと言えずにここまできてしまった。
そしてなぜYesと言えないのよ私!?
という混乱を抱えて生きてきた。
本当に好きなのだ、私は彼らのことが。
大事だし、自分と仲良くしてくれてありがたいし、会って喋れば楽しい。
だけど直感的に、私の“好き”は彼らの“好き”とは全く異質であるものだと気づいていた。
私は現在、アロマンティックを100%自信を持って自認できていない。
そしてノンセクシャルとかデミロマンティックなどの言葉にものすごく翻弄されている。
この前までアロマンティック・アセクシャルという言葉に出会って、やっと安心できるホームを見つけた気分だったのに、今はその言葉やラベリングに混乱している。
セクシャリティのグラデーションや複雑さに迷子になった気分なんです、私。
さっきも言ったように、私はとても親しくなった人に男女問わず “好き”という感情を持ちます。
好き、会えて嬉しい、喋れて嬉しい、仲良くなれて嬉しい。大事なひと。
ただ私のこの“好き”は、世間がいう“恋愛感情”と呼ぶにはちょっといろいろなものが足りない気がしてきた。
例えば私は、“好き”な男性が、他の女性と二人きりで会っていたり、キスやセックスをしていても嫉妬できない。
週に一度会おうと言われれば、そんなに頻繁に会う必要はないと感じるし、意味のないLine(おはよう、おやすみ、今仕事終わった〜とか、これ食べてる!とか)はいらないと思う。
なんていうか、西野カナの「会いたくて会いたくてふるえる」的な、切羽詰まって相手を求める感情が全くない。
会えば嬉しい。
でも会えなくて苦しくなったり、イライラしたりしない。
私とおんなじように、相手も私を“好き”でいてくれたら嬉しい。
だけど、切羽詰まったような、閉塞感が感じられる“好き”からは、全力で逃げたい。
手を繋いだり、キスしたり、セックスしたいと求められれば、逃げたくなるし(これはアセクシャルかな?)、その人が誰かとセックスしていても、他に彼女がいても、その人が幸せなら私も嬉しい。
私の“好き”という感情は、恋愛感情のポジティブなものとは重なる部分があるけれど、ネガティブな執着心・嫉妬心・その人のオンリーワンでいたい欲求がない。
だから私は、自分の“好き”は世間で言う恋愛感情と呼ぶにはちょっと足りないんだと思う。
実際、私の執着のなさや嫉妬心のなさは彼らをひどく不安にさせていた。
だから、「ねえ、俺のこと本当に好きじゃないんでしょう?」とか、「どうやったら本気で俺のこと好きになるの?」とか「今はそんなに好きじゃなくていいよ、徐々に好きになってくれればいいから」と言われた。
私のこの、恋愛特有の「あなたが欲しい!あなたじゃなきゃダメ!」的な切迫感がないことで、彼らを怖がらせ、傷つけてきた。
私は”本当に”彼らを好きな訳じゃない、と思わせてしまったから。
でも、傷つけたいなんて思ったことないんだよ、本当に“好き”なの、私は。
だから私はアロマンティックなんじゃないかなと思っている。
これは私がそう思っていると言うより、他者が見たら私は“恋愛感情なし”の人とジャッジする気がするから、そう思っている。
いっつもちょっと苦しいし、悔しいです。
私の“すき”は、世間で言う“すき”とは違うことが。
足りない、とがっかりされることが。
アロマンティックの“すき”って、そんなに欠けているものなんでしょうか。
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しがつ
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