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島尾敏雄文学碑 風景印と記念碑

 鹿児島県大島郡瀬戸内町せとうちまちにある押角おしかく郵便局の風景印には島尾敏雄しまお としお(1917―1986)の文学碑が描かれています。文学碑は奄美諸島の加計呂麻島かけろまじまにあり、彼の文学の原点となる特攻の舞台であった島です。

島尾敏雄

 横浜市生まれですが、父母の故郷だった福島県をよく訪れていたそうです。その後神戸に転居し中学時代には同人誌をだす文学少年でした。

 1940年九州大学に進学し、1943年に処女作『幼年期』を自家版で発行。9月に繰り上げ卒業、海軍予備学生となり、第一期魚雷艇学生として激しい訓練を受ける。その後、第18震洋隊(モーターボートの特攻隊)指揮官となり、加計呂麻島に渡りました。

 1945年8月13日、ついに特攻を命じられましたが、15日にポツダム宣言を受け入れ終戦となったため実際には出撃することはありませんでした。この体験記が『出発は遂に訪れず』(1962年)で、のちに妻となる大平ミホとも出会いました。

 終戦後はミホと結婚し、第三の新人世代として文壇で活躍します。妻ミホとの葛藤を描いた『死の棘』(1960-1977)が代表作です。

 映画にもなりました。



記念碑の地図

 特攻隊のあった跡地が奄美諸島加計呂麻島の島尾敏雄文学碑公園です。今でも格納壕には復元された艇(震洋艇)があります。

 基地の跡も訪れられると良いでしょう。文学碑公園のある加計呂麻島へは奄美大島からフェリーで行くことができます。


碑文

建立趣旨

この地呑之浦が島尾敏雄と廻り会ったのは、昭和十九年十一月、島尾は、第十八震洋隊隊員一八三名を率い、呑之浦の入江深く、基地設営のために上陸した。島尾は、震洋特攻隊長としていつ捨てるかも知れぬ命を背負い、死への準備にいそしむ日々を生きていた。押角国民学校に勤める大平ミホに出会ったのは、そんな戦争状態の中にあっても、時として訪れる平穏な一日であった。島尾の特攻出撃とともに、二人の青春はこの地に散るはずであったが、敗戦により思いがけない生を得た。

戦後、文学史上に残した島尾の仕事は、ここでの体験を抜きにしてはけっして語ることができない。三回忌を迎えたいま、島尾敏雄の業績をたたえ、それを記念するために、ゆかりに地呑之浦に文学碑を建立する。

一九八八年十二月四日  島尾敏雄文学碑建立実行委員会

 除幕式にはミホ夫人が招待されていました。


押角郵便局

 風景印は郵便局で押してもらえる絵入りの特別な消印で、色は赤茶色です。郵便窓口に「風景印を押して出してください」とお願いすれば、差し出す手紙やはがきに押してもらえます。また、63円以上の切手を貼ったカードなどに押してもらえます。その場合、差し出さずに持ち帰ることができます。

 風景印は2019年(令和元年)5月7日から使用開始されたものです。郵便窓口は平日のみの営業です。


左の船は「呑之浦湾に浮かぶ船」と説明されていますが、
「震洋」ではないかと思われます。

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