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書くことが怖いあなたへ 日記-20230417

・最後にnoteを更新してから3週間近くが経っていた。自分が購読しているnoteユーザーの中には、毎日1,000、2,000字を超えるような日記を欠かさず更新し続けているような人もいて、自分はそうはなれないなと思わされる。それ以上の文量を日々書き溜めている、小説家のようなプロは言わずもがなだ。継続することは、難しい。新たなことに挑戦しようと意気込みノートを作っては、冒頭の数ページを終えて残り全てが白紙になる、そんな毎日を送っているのが私だった。継続すること、どころか、わずかだって何かを書くのは難しい。

・文章のことについて少し考えていた。自分はそもそも、文章を書くことは途方もなく怖いことだと思っている。人の声が溢れるばかりにネットを飛び交い、何をせずともその声が目に、頭に飛び込んでくるこの現代で、一人の発する声、あるいは文章なんてその大多数のうちの一つに過ぎない、矮小で取るに足らないものに思える。どうしたって、書く手はすくむ。こんなことをやって何になるんだと。お前の書く文章に価値なんてないんだと、常に何かに囁かれ続けているような気さえする。目に映る他人の文章の粗探しをしては、こんなものを作るぐらいならと、書けない自分を正当化もする。他人にむけていた冷たい視線は、反射を繰り返しいつしか自身の背後に突き刺さっている。

・無理に何かを書く必要なんて、ない。それは事実であると思う。そもそも執筆をはじめとして、創作は別に、美しい行為でも賛美されるような何かでもない。欺瞞に満ちたシステムの中で、私たちはときに、生産性という正義のもとに何かを生み出すことを強いられる。苦悩の果てに生み出したそれが、散々に消費されるか、消費もされないままに野の果てに消え、見えないものになることに目を瞑らされて。

・しかし、たとえ私の声が取るに足りないものであろうとも、何事もなさずに消え去ろうとも、声を上げ続けなくてはいけないと、そう思い続けられるだけの証左もある。生きることは、他者との関わりの中でうねうねと変わり続ける自身という不定形の存在を、どうにか保つことだ。口をつぐむことは、私にとってはそれを放棄すること、死んでいることと同じだ。何度も使い古された常套句だろうと、文壇から毛嫌いされるようなクリシェだろうと、私の中の何かがそれを発したいと願うなら、開き直って書き、形にし続けなければならないような気がする。100億のゴミの果てに、一言でも私の言葉だと自信を持って言えるような何かが生まれるのであれば、その可能性に賭け続けなければいけない。二番煎じも、車輪の再発明も、甘んじて受けれろ、と。

・そういえばライター、編集者として仕事をするようになって、それまで以上に人のエッセイをよく読むようになった。最近読んだのは、小説家の村田沙耶香さんが書いたエッセイ集『となりの脳世界』だった。

・独特な視点の持ちようや、絶妙に共感からハズレれたような感情の機微など、そこには彼女の小説作品に通じる魅力がやはりあった。ただそれはそれとして、この本の丁寧な筆致をきっかけに気付かされることになったのは、書く対象への向き合い方だった。作家自身にとっても大事なのだと思えるような出来事については、発表媒体や執筆の機会によって思い直されたのか、複数のエッセイで同じ場面が描かれていた。それで、ああ、同じことも何度だって書いていいんだと、そう思った。

・よくよく考えれば、これは別にこの本に限った話ではない。というか一人の著者によって書かれた大概のエッセイ集には、多かれ少なかれ同じような記述が登場する。毎日ブログを更新し続け、膨大な文字数を積み上げ続けるようなライターは尚更そういうきらいがあると思う。同じ悩みを、同じ苦しみを、何度も何度も綴り続ける。書籍にはならないことをこれ幸いにと、被りなどお構いなしに、目の前にある苦しみを、それの源泉となった出来事や思い出を、綺麗な形になるまで角度を変えて書き殴る。そんな人もいる。

・思えば、私は人が自身の声として文章を書くということに、過度な期待を抱いてしまっていたのかもしれない。自分という存在について書くことは、自分の人生の一部を剥ぎ取り、それこそ切り売りするような形で失うことだと思っていた。下手な文章を書けば、自身を構成する一部は醜い形のままで手元を離れ、永久にそのままなのだと。自身の一部が腐り果てる様をみられる、そんな思いをするなら文章なんて書かなければいいと、余計に自信を縛る縄をより強固なものにしてしまっていた。

・でも、たった一片の文章で、たかが文章で自己が欠損し、規定されてしまうなんてことは、きっとまやかした。完璧な文章が存在し得ないという簡単な事実をわかっているのなら、自信を作り上げるのに完璧なピースが必要ないなんてないことだってわかるはずだ。何度同じ話を書いたって、飽きるほど気に入ったレトリックを使い回したって、書き直し手を加え続けて、いつしか自分の思う理想の声に近づけていけばいい。ようやくそう思えるようになった気がする。

・高尚だろうが駄文だろうがそんなことはどうでもよくて、何かを書き続けられる人を私は尊敬している。どうにかそれに近づけないかと、もがくことすら恥じるようなしょうもないプライドを抱えたまま、ずっと考えている。私自身の声が聞きたいと願う私は、人の声を聞くのも好きだ。何かを乗り越えた末に発せられるあなたの声を、あなたの書くものをもっと見せてほしい。