見出し画像

【推しの子】で描かれている擬態について、個人的に。

※当記事はアニメ【推しの子】第一話のネダバレを含みます


友人に勧められて見たアニメ【推しの子】があまりにも面白かったため公式アプリで全ての話を一気に読んでしまった。熱量そのままの勢いでnoteを書いてるため拙い文章になってるかもしれないけど、温かい目で見ていただけると嬉しいです。



第一話が90分というアニメにしては長い尺だったので少々腰が重たかったが、話を見ていくうちにその理由がよくわかった。

この作品は残された2人の兄弟の復讐を描く物語なので、作中の主要人物の細かな境遇やアイに対してどんな思い入れがあるのかを描いて最後にアイが殺害されて2人が復讐を志すという目的に辿り着いているプロローグになっている必要があったと解釈した。

そんな激動の第一話の中で。とあるシーンがとても強く心に残った。

アイドルという仕事と嘘をついて(擬態して)生きることとの親和性をものすごくポジティブな意味合いで語られてるシーンだった。

僕はアイのように「本当にこうなれたらいいな」という希望を抱きながらアイドルに擬態をする人間とは違い、人の顔色を伺い空気を読みながら相手の正解に自分の正解を合わせながらなんとかその場を生き抜いてきた人間だ。

そもそもなぜそんな人間になったのかというと、田舎で過ごした幼少期の経験が大きな要因だと思っている。

少し昔話を、



僕は小学校に上がるまで膀胱の病気で寝たきりの生活をしてた。なので、他の子達よりも体の弱い子供だった。

父は僕に農家の家業を継いで欲しかったこともあり、貧弱な体では務まらない仕事であるが故に体力のある男に育てようとした。

その内訳はなんとも安易で、スポーツをさせて体力を養わせよう、というものだった。

自分の生活を人に決められるのは嫌だったが、タチの悪いことに当時親の口癖が「言うこと聞かないと、この先のお前の人生助けてやらないからな。」だった。

言うことを聞いていないと見放されてしまうんじゃないかという恐怖心が幼い心にはあまりにも響いた。

体が弱いので本当は嫌だったが、それでも親の期待に応えるためにスポーツが好きな少年に擬態しながらなんとか続けた。

小学校ではさほどやりたくもないスケートを6年間続け、中学校ではさほどやりたくもない野球を3年間続け、高校ではさほどやりたくもない陸上部を3年間続けた。

常に親の求める自分に擬態しながら過ごした学生生活。そのタイミングで人生最大の反抗が始まり、僕は農家を継がずに料理人になった。

理由は当時付き合ってた子に手料理を振る舞ったら喜んでくれたからだった。なんとも稚拙な理由だったが、その時初めて擬態をせず自分の意思で誰かに喜んでもらえたのが嬉しかった。

しかし、なりたかったものになれたはずなのにまだ僕は擬態を使っている。

料理の仕事は技術職であるが故なのか、理不尽にも不条理にも耐えて奥歯をギリギリとさせながら下積みをすることを美徳とする風習が未だに抜けずに蔓延っている。

仕事に疑問さえあれど、結局僕はそのルールに則りながら生きている。上司の求める理想の部下に擬態してる。正直あまり好きになれないお客様も過去にはいたことがある。

だから幼少期から培ってきたものを惜しみなく駆使して毎日をどうにか生きてるのです。



話を【推しの子】に戻します。



つらつらと昔話を書いてきたが、要はそんな僕だからこそ社長がアイをアイドルの仕事に勧誘するシーンが頭の中に強く残ったということなのだ。

「嘘でもいい。」

【推しの子】第一話より


父親が亡くなり、母親は窃盗の容疑で逮捕されているアイは小さい時から人を愛したことがない。

そんな自分なのにお客さんに愛してるという言葉を振り撒くアイドルの仕事は向いてないと社長を追っ払おうとするのですが社長はそんなアイに嘘でもいいと言うのです。

「本当は君も誰かを愛したいと思っているんじゃないか?嘘でもファンのために可愛く振る舞うことを続けるのはファンに対しての最高の愛の形だ。愛してるって言い続けてれば嘘が本当になるかもしれない。」

【推しの子】第一話より


僕は擬態は自分を騙すために使うものであると思っている。

その時その時一番その状況と空気に合った人間に擬態し、これが正解だと自分に思い込ませ、その場を円滑に回す。そんな自分を八方美人だと思って辟易とした時もある。

だからこそ周りの空気など鑑みずにその場がどうなろうとも自我を貫き通す人間が苦手だ。
そういう人に出会う度に僕は「やはり素顔を曝け出して生きることができるナチュラルボーンカリスマだけが人生の勝者なのか」と絶望するのだ。(もしかしたらその姿も擬態なのかもしれないが。)

じゃあ僕みたいな人間は最終的にどうなれば幸せなのか。

それはやはり嘘が本当になった時だと思う。

スケールこそ違えど僕も普段から擬態をかなり使っている人間だと自覚してる。

ただ、アイと僕の違いは「自分の意思で擬態を使っている」か「自分の意思とは別の理由で擬態を使っている」か、というところにあると考えた。

アイは前者であり、僕は後者なのである。

上記の社長のセリフは嘘を希望のような意味合いで使っていると見えた。擬態人間の希望が叶った時、つまり、嘘という仮面を被った夢が叶った時。本当に幸せだと言えるのじゃないかと思った。

シーン自体は3〜4分くらいの短いシーンだったけど、それは紛れもなく人に合わせながら生きてきた擬態人間である僕にも同じくらい強い希望だと思ったし、一つの救いでもあると思った。

ついつい人に合わせて生きてしまう自分もきっと報われる瞬間が来ると示唆してくれているかのような。そんな勇気を貰ったのです。

だったらその嘘(夢)が叶うまで、僕の本音はこのnoteにヒソヒソと書き留めていくことにする。擬態しても、嘘をついても、それが本当に叶ったと言える時のために。
そして、その時に出る杭を打とうとするナチュラルボーンカリスマに抵抗するための唯一のジョーカーとして、本音だけはずーっと手札の片隅に伏せておく。

僕がそれの使い所を間違えるはずがない。

また今日も素敵な作品から勇気を貰いました。とにかく【推しの子】がとても面白かったのでこれからも続きを楽しみに見ようと思いました。

そして、擬態の自分も自分なんだと受け入れてくれる人が僕の周りにはたくさんいるのでその人達への感謝も忘れずに生きていこうと思います。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?