ぼくは大学図書館のAVルームへ行く

 ぼくは大学図書館をよく使う。自宅の近所の公立図書館には置いていない本を借りたり、グループ学習エリアでサークルやゼミの打ち合わせをしたりもするが、もう一つ、ぼくには大学図書館の重要な使い道がある。それはAVルームでの映画鑑賞だ。大学図書館1階のAVルームには古今東西の映画のDVDが収蔵されていて、そこでは各自ヘッドホンを装着の下、机単位で仕切られたスペース(半個室ってほどではない)でDVDを鑑賞できるようになっているのだ。

 AVルームで映画を観るのは、最初、単なる空きコマの時間潰しにすぎなかった。ぼくはもともと映画が好きなので、これはいい時間潰しになった。やがて、これはただの時間潰しに留まらず、ぼく自身の成長に繋がる行為だということに気が付いた。というのも、ぼくは放送サークルで音声ドラマを作っているのだが、AVルームで昔の映画を観ることが自分の創作の糧になっていると感じたからだ。

 昔の映画は動画配信サービスで配信されているとは限らない。世の中には、DVD化はされているがネット配信はされていない、という映画がある。ぼくの大学の図書館にはそういう映画のDVDがたくさん置いてある。しかも無料で観賞できるのだ(DVDを家に持ち帰ることはできないけど)。この「無料」ってのがミソである。無料だからこそ、ぼくはAVルームの陳列棚の中からDVDを気軽に選ぶことができる。「これでも観てみるか」って感じでテキトーに手に取ることができる。

 ぼくと『モダン・ミリー』の出会いもまさにそれだった。一年生の秋学期、ぼくは『モダン・ミリー』のDVDケースをたまたま手に取った。別にぼくは『ティファニーで朝食を』のDVDケースや『ジュラシック・パーク』のDVDケースを手に取ってもよかったのだが(結局それから数か月以内に手に取ることになった)、なぜかその時は『モダン・ミリー』のDVDケースを手に取ったのだ。もしかしたら、直前の美術史(Y先生)の授業で「ポストモダンがどうの」という話を耳にしたせいかもしれない。

 ところで、『モダン・ミリー』とは何なのか。いまこのnoteを読んでいるほぼ全員(あるいは全員)が直面している疑問にお答えすることにしよう。『モダン・ミリー』とは、1967年に公開されたハリウッド映画のタイトルである。リチャード・モリスというひとが脚本を書き、ジョージ・ロイ・ヒルというひとが監督を務め、ジュリー・アンドリュースというひとが主演したミュージカルコメディ映画だ。

 これはぼくの主観にすぎないが、『モダン・ミリー』は泣く子も黙る名作ではない。アカデミー賞で作曲賞を受賞したらしいが、正直言ってミュージカルナンバーは微妙だし、特撮は安っぽいし、映画の尺(分数)は長すぎるし、そのせいか物語は途中で中だるみするし、全体的になんだかいまいちパッとしない。この映画の知名度が低いのにはそれなりのワケがある。

 でも、ぼくはこの映画が好きだ。なぜって、最初から最後まで明るいし、楽天的だし、朗らかだし、まじめな姿勢で作られている映画だと思うから。あと、主演のジュリー・アンドリュースが素敵だし、セレブ役のキャロル・チャニングも個性強めでチャーミングだし、主人公のボーイフレンド役のジェームズ・フォックスもジョン・ギャヴィンもぼく好みの二枚目俳優だから(※ぼくはゲイです)。この映画は「よくできた」映画ではないが、「よい空気の」映画ではある(少なくともぼくにとっては)。

 もっとも、ぼくが『モダン・ミリー』でいちばん好きなのは、冒頭のオープニングタイトルなんですけどね。時代遅れのダサい格好の女子(という設定なのだが帽子はともかく服装は一周回ってお洒落なのでそう見えないのが惜しい)が、新しい髪形・新しい洋服・新しい靴・新しいブラジャーを手に入れて変貌を遂げるというスキットだ。このシーンに限っては曲もいいし、演出もいいし、カメラワークもいい。

 同時に、このシーンこそは、創作者としてのぼくを刺激し、大学図書館のAVルームで古い映画を観ることの意義を自覚させるシーンとなった。ぼくはこのシーンを観て、「ぼくだったらこうするのにな」「こうすればもっと面白くなるのにな」と創作意欲を湧かせたのだ。

 ぼくが監督だったら、このシーンで、ミュージカルナンバーはBGMで流すのではなくその場でジュリー・アンドリュースに歌わせる。通行人たちがふつうに会話しながら歩いている中で、ジュリー・アンドリュースはカメラ目線で歌うという演出にする。「Thoroughly Modern Millie」の字幕をフェードインで表示するのはいいとして、消す時はフェードアウトではなくカットアウトにする。……とまあこれは一例で、しかも映像作品においての話ではあるが、ぼくは『モダン・ミリー』のような昔の映画を観ることで「自分はどういうセンスをしているのか」「自分はどういう演出をしたいのか」を研ぎ澄ませ、サークルの次の発表会で上演する音声ドラマ(同期の後呂に言わせると「もはや演劇」)に活かしていくようになったのである。

 ぼくは自分が観たいものを作りたい。逆に言うと、ぼくを100%満足させる作品を作る制作者がこの世にいないからこそ、ぼくは作品を作っている。もしもぼくが観たいものをいつも作ってくれるひとがいるなら、ぼくはそのひとのファンになればいいだけだ。自分で改めて何かを作る必要はない。でもそういうひとがいまのところこの世にいないから、ぼくは自分で脚本を書き、自分で演出をして、部員を使って人前で上演している。ぼくの表現メディアが音声ドラマだっていうのは偶然でしかないが、ただまあ、きっとこの偶然には何か意味があるのだろう。

 いや、意味なら自分で作ればいい。観たいものがなければ自分で作ればいいし、需要がなければ自分で作ればいい。あまり詳しく書くといよいよ身元を特定されかねず、このnoteどころかぼくの人生が破滅するので詳述は避けるが、ぼくは大学のサークルを引退しても作品づくりを続けられるように、先輩や同期や後輩と一緒に計画を進めている。まあ、新たにインカレサークルを立ち上げる的な……。往生際が悪いと言われればそれまでだけど、他人の視線を気にするぐらいならぼくは今頃生きてません!

 話がだいぶ横道に逸れた気がするが、要は、大学図書館のAVルームって静かでいいところだからみんな活用してみてねって話でした(そんな話してなかっただろ!)。……まあ、『モダン・ミリー』を観なかったらぼくは創作を続けていなかったとまでは思わないが、観たことで「そうか。ぼくは自分が観たいものを作っていけばいいんだ」と気持ちが固まったのは確かだ。そういう意味で、ぼくにとって『モダン・ミリー』はなかなかの名作だ。ぼくの創作の糧になる、ぼくにとっての名作と出会うために、ぼくは明日もまた大学図書館のAVルームへ向かう(なにしろ無料だし)。

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