ぼくは苦い涙を観に行く

 少し前の土曜日、ぼくは『苦い涙』という映画を観た。フランソワ・オゾンというフランスの映画監督の最新作だ。ぼくはこの映画をヒューマントラストシネマ有楽町へ一人で観に行った。ぼくが映画館で一人で映画を観るのは久しぶりのことである。ぼくは彼女の由梨と映画館へよく一緒に映画を観に行くが(行かされるが)、一人で映画館へ行ったのはもしかしたら今年に入ってからはこれが初めてだったかもしれない。

 ぼくが『苦い涙』を観に行ったのは、由梨に頼まれて、ル・シネマ 渋谷宮下へ「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー傑作選」の前売券2枚分を買いに行ったのがきっかけだった。ぼくの所属する放送サークルが外部のウェブ番組の制作に携わっている関係で、ぼくは定期的に渋谷へ行っている。ル・シネマの上映作品は平日は学生1200円で観られるのだが、来月前半のぼくらはスケジュール的に平日に一緒に映画を観に行けるか微妙なので、100円割高だけどどうせなら前売券を買っちゃおうという話になったのだ。前売特典のポストカードも付いてくるし(正直ぼくはいらないが)。

 由梨から「傑作選」を観に行こうと提案されるまで、恥ずかしながら、ぼくはファスビンダーというひとの存在を知らなかった。見たことも聞いたこともなかった。ぼくの大学の近くのお店で晩ご飯を食べながら、由梨が「ファスビンダー」という単語を発した時、ぼくは「ふぁすみぃだぁ……?」と聞き返したぐらいだ。だいたい、ドイツの映画作家なんてぼくには縁がなさすぎる。ぼくと由梨は映画の趣味が合わない。

 その日、渋谷で「傑作選」の前売券を買い、サークルの連中とハチ公前で集合し、青山のスタジオでウェブ番組の配信を無事に済ませ、サークルの連中と晩ご飯を食べて帰宅したあと、自宅のPCでYouTubeを見ている時にそういえばと思い立ち、「ファスビンダー」で検索してみる。「傑作選」の予告映像と並んで、「フランソワ・オゾン監督、ファスビンダー監督への敬愛と最新作『苦い涙』について語る」というタイトルの動画も出てきた。ぼくはそもそもフランソワ・オゾンのことすら知らなかったが、ファスビンダーとかいう(ぼくにとっては無名の)昔のひとを慕う現代人がいるらしいという事実に興味を惹かれ、その動画を見てみた。

 インタビュー本編のあとに流れた『苦い涙』の予告映像を見て、ぼくは単純に「この映画観たい」と思った。この際だからはっきり告白すると、そう思った第一の理由は、若い美青年の裸が出てきたからだ。ぼくはゲイだ。交際二年目の彼女がいるゲイだ。予告の中で「魅力的な青年」として紹介されている彼は、必ずしもぼくのタイプってわけではないが、でもぼくはその青年にちょっとソソられた(ぼくは若い男なら誰でもいいのか?)。

 でも、ぼくが本当に映画館へ行ってこの映画を観ようとまで思ったのは、予告の最後に出てくる「人は愛するものを殺す でも誰も死なない」という日本語のコピーに心を撃ち抜かれたからだ。「でも誰も死なない」。ぼくは高校生の時に須川くんというノンケの同級生を大好きになって、告白したけどもちろん断られて、いまだから言えるけど、ぼく死のうかなあなんて思いつめたりした。「でも誰も死なない」っていうのがそのことを言っているのかは分からなかったが、でもそのコピーを読んで、この映画はぼくが観るべき映画だと思ったのだ(コピーライターさんやったね!)。

 あとはまあ、ぼくが大ファンのジョン・ウォーターズが絶賛しているというのも観に行く決め手だったりしたんだけど、ともあれ、ぼくはこの映画に由梨を誘わず、一人で観に行くことにした。それはこの映画が同性愛を描いた映画のようだったからだ。ノンケのふりをしているゲイが、彼女と一緒に同性愛の映画なんて観に行けるはずがない。鑑賞中のちょっとした反応でぼくはゲイだとバレてしまうかもしれないし、観たあとに感想なんて求められたら平然としていられる自信がない。数か月前に由梨に連れられて観に行った『ガール・ピクチャー』というフィンランドの映画にもそういう描写はあったが、あれは女性同士の同性愛だった。『苦い涙』のほうは男性同士の同性愛である。ぼくの専門分野、ぼく自身の急所だ。

 結論から言うと、『苦い涙』はめちゃくちゃ面白かった。まさに、ぼくのための映画だと感じた。いわゆる「コメディ映画」っていうわけではないのだが、観ていて何度も爆笑しかけたし(客席はそういう空気じゃなかったのでぼくは必死に笑いを堪えたが)、台詞やシナリオは自分のことをネタにされているようで、いい意味で胸に刺さってきて気持ちよかった。

 具体的にどこがどう「ぼくのための映画」だと感じられたのか。まず、主人公・ピーターの設定がぼくの立場と似通っていた。ピーターは国際的に成功した映画監督で、ゲイだが女性と結婚したことがあって娘もいる。一方、ぼくは国際的には成功していないけど大学の放送サークルで音声ドラマを作っていて、ゲイだが彼女がいてセックスしている。オープンリーかクローゼットかという最大の違いはあるけど、なんかもう、主人公とこういった共通項がある時点で「ぼくのための映画」だっていう感じがした。

 オーディションを兼ねてピーターが美青年を撮影するシーンも、「ぼくのための映画」感があって面白かったな。ぼくは自分の作品にイケメン部員を起用することがある。そいつらにかっこいい台詞を言わせたり、キュンとする台詞を言わせたりしている。ある意味では職権乱用、公私混同だ。でも、公私混同ってことは、そこには「公」の側面もある。ぼくはどんなイケメン出演者を前にしていても、作品づくりのことを絶対に忘れていない。いや、あくまでも作品のために自分の嗜好を稼働させている。そこが逆転することは絶対にない。劇中の大監督と自分を重ね合わせるのはおこがましいが、でも、ピーターが目の前の美青年に性的に興奮しつつ、その美青年の演技の才能を冷徹に見出すその感覚は、自分事としてよく分かるものだった。

 それから、もはやこれは余談だけど。途中から出てくるピーターの娘(14歳と説明されているがもっと大人に見える)の髪型は、いまの由梨の髪型とほぼ同じだ。LINEのトークでは自分に似合っているかどうかものすごく気にしていたけど、実際に会った時にぼくから「とてもかわいい」と褒められると、「じゃあこれからずっとこの髪型にする」と言ってきた髪型とほぼ同じだ(ぼくは「ぼくの好みを基準にして決めるのは絶対やめて」と慌ててお願いした)(恋愛脳の時の由梨がぼくは本当に大嫌い!)。こんなところにもぼくは「この映画はぼくのための映画だ」という感想を抱いた。

 自分一人でこの映画を観に行って正解だったな、由梨と一緒だったら気まずいところだったな、と思うシーンもあった。たとえば、A「愛してるよ」→B「おれもだよ」→A「いつもそれだ。たまには『愛してる』と言って」というやり取りとか、ぼくらが去年にホテルで交わした会話そのままだ。あれ以来、ぼくは自分のほうから「好き」って言うことを意識するようになったのだった(人間としては本当に由梨を好きだから嘘ではない)。念のため言っておくと、去年、由梨はめんどくさいトーンでそれを言ってきたわけじゃないよ。ぼくに気を遣って冗談っぽく言ってきた。だからこそぼくは罪悪感を抱いたわけだけど。ちなみに、映画の中でもこのやり取りはシリアスっていうよりはコミカルな感じで描写されていた(少なくともぼくはそう受け取った)。とはいえね、このやり取りはぼくら的には思い当たる節が大ありだから、やっぱりぼくはこの映画を一人で観に行って正解だった。

 ただ、映画が終わって、あまりにも面白かったので売店でパンフレットも買って、映画館のフロアを出て、エスカレーターで1階へ下りながら、ぼくはちょっと寂しさも募らせていた。だって、こんなに面白い映画を観たっていうのに、ぼくには感動を分かち合う相手がいない。いつもだったら、隣か前にいる身長150cm台の女子大学生に「面白かった!」と言えているはずなのに。今日はそのひとがいない。いつものあのひとがいない。

 ぼくにだって友達ぐらいいる。学科の友達もいるし、学部の後輩(ぼく的には友達)もいるし、地元の友達もいるし、高校時代の友達もいるし、サークルの連中は「身内」って感じだけど友達といえば友達だし、他大学の知り合いもいるし、あとは、えーと、まあ、しゃべり相手なら色々と見つかる。そういうひとたちに「この前観た映画が面白かった」と話すことはできる。いつでもできる。だいたい、ぼくはもともとは映画を一人で観に行くタイプの人間だったわけだし。自宅では動画配信サービスで映画をいまでも一人で観ているわけだし。その時にぼくは感想をいちいち誰かに伝えたりしていないし。ぼくが映画を観る時に小手由梨は必要ない。全然必要ない。

 ぼくにとって『苦い涙』はどこがどう面白かったかを由梨には絶対に伝えられない映画である(だって、それを説明したらぼくがゲイだとバラすことになる)。でも、そういうぼくの内面にシンクロする映画だったからこそ、ぼくは由梨に感想を伝えてしまいたくなる。──ああ、究極の矛盾だな。たとえば、さっき書いた「ぼくはイケメンに興奮しつつ、あくまでもイケメンを自分の作品のために利用する」っていう話とか、由梨ならその意味を理解してくれると思う。同調はしないだろうけど、ぼくの話の意味はきちんと通じるはずだ。いつの間にやら、由梨は、ぼくの(少なくとも創作者としてのぼくの)最大の理解者になってしまっている。映画館へ久しぶりに一人で行って、しかも『苦い涙』なんていう「ぼくのための映画」を観てしまったせいで、ぼくはそれに気付いてしまった。

 ぼくの心を撃ち抜いた「人は愛するものを殺す でも誰も死なない」というこの映画のコピーは、劇中に出てくる歌詞の一節だった。ここでの「殺す」「死なない」は物理的な意味でも精神的な意味でもあるんだろう。やっぱりぼくは「でも誰も死なない」の部分が重要だと思う。そう、殺したところで誰も死にはしない。ぼくが由梨を愛しているかはともかくとして、ぼくが由梨を殺したところで由梨は死なない。深手は負うだろうが、死にはしない。ただ、物事ってやつには常に例外がある。もし由梨がぼくを殺したとしたらどうだろうか。いまのぼくなら案外あっさり死ぬ気がする。由梨ならぼくを死なせられる気がする。ぼくは最近、由梨に会う日が待ち遠しい。

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