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中高生と話すときの僕は、どんな自分だろうか。

ウィズコロナ3年目、学校もさすがに止まっていられないと、職場体験や修学旅行をはじめ、我らが「中学生・高校生だっぴ」もコロナに負けず?(中止判断ではなく)決行する学校が増えてきました。

コロナ対応で変則的な仕様で実施ことがもはや通常運行になっている中で、中身の「対話」の瞬間は変わらないものにしていきたいと感じる次第です。
そこで、主に、「中学生・高校生だっぴ」におけるグループファシリテーター(だっぴでは「キャスト」と呼称)に限定して、少し自分の中の整理を文章にしておきたいと思い、noteにまとめます。

自分の芸風を内省してみる

まず前提として、ファシリテーションは芸事に近く、自分に合ったスタイルがあるものであり、自分の芸風を内省してみます。(自分に何が合っているのかは繰り返し行われる実践の中で、その輪郭が見えてくるものではありますが…)

僕の志向性は、ざっとこんな感じ。

・森羅万象とまではいかないが、わりと幅広く、まんべんなく世の中の事象について知りたい
・他人の思考世界がどうなっているのか、自分の中で整理して考えたい
・場の規範をはっきりさせて、その規範の中で自由に立ち振る舞ってもらいたい
・場に馴染めていない人がいると気になる

簡単に言えば、「分からないことを分かりたい」「(他者に)楽しんでもらうためには、楽しみ方を伝えることも必要だ」という思考だと思います。

自分が楽しい対話、それはどんな瞬間にあるか

僕の場合は、相手の世界にダイブして、なんでそういう思考やロジックが成立するのか、相手の感覚を知れる瞬間が結構楽しい。(認知のバイアスはあるので、相手を完璧に理解することなど不可能ですが)

「へぇー、その感覚は僕にはないなぁ」とか、「あー、そういう思考回路で成り立っているのか」となるとき、面白いと感じるのです。

その「没入」に、他の人にも付き合ってもらう

誰か(Aさん)の世界に没入(ダイブ)しながら、「他の人はどう感じているんだろう」「○○さんは似た(あるいは異なる)感覚かもしれないな」と思い、Aさんの世界に、他の人もお邪魔してもらうことに付き合ってもらいます。

このときの問いは、

「○○さんは××じゃないかと僕は思っているんですが、(Aさんの話を)どう感じましたか?感覚近いですか?」

みたいな感じかもしれません。

さらに、疑問は尽きない

Aさんの世界に、Bさんの視点も重ねて話をしていると、さらに僕には分からないことが出てきたりします。僕は純粋に知りたいと思うので、「僕は分からないんだけど、~~~?」と聞きます(多分w)。他の人の考えも知りたいので、Cさん・Dさんにも振ってみてもよいかもしれません。

「教えてほしい」が誘発する、「答えたい」

ふと振り返ってみると、僕が「答えたい」と思う問いは、問いを発した人が答えを(教えて)欲しがっていて、それに貢献したいと思う気持ちが、答える行為を後押ししているように思います。

とすれば、

「○○さんはどう思う?」というフリも良いですが、「僕は分からないから教えてほしい」というニュアンスを付け加えることで、相手が答えたい問いというものに近づくのかもしれません。(微妙な差異かもですが)

場の要求・欲求を、感じ取ってみる

ここまでは「自分の視点」から省察してみましたが、ここからは「相手の視点」からの省察です。

自分だけがしたい話をしても良くないですし、自分だけが聞きたいことを聞いていても、ファシリテーターとしては良くはありません。その場にいる人が聞きたいこと・話したいことを見立てる(=こうじゃないかと仮説を立てる)力もまた大切です。

参加している人たちが「あー、今楽しんでるな」「興味をもって話を聞いてくれているな」と自分が感じた瞬間

それは一体、どんな瞬間だったでしょうか。(場面場面で異なるので、)きっと様々あると思います。嬉々として話してくれる瞬間だったり、一所懸命振り絞って言葉にしてくれた瞬間だったり。

自分の感覚の「良し・悪し」とは、別のものさしで

嬉々として話してくれる瞬間は、こちらも分かりやすくよかったと思えます。目に見えて分かることなので。一方で、一所懸命振り絞って言葉にしてくれた瞬間は、分かりにくいこともあります。

ただ、目に見えるものだけが、その現象を表しているわけではありません。表出していない感情だったり、まだ言語化はできない感覚っぽい何かが、言葉や立ち居振る舞いの奥にあります。

そうした「何か」は相手が明確に教えてくれるものではないので、こちらで見立てる(想像する)力がここでも必要になってきます。

ラーニングゾーンは、人によって異なる

例えば、鉄棒が容易くできる人にとっては、逆上がりは何のその。自分が既にできることで、体験済みなので安心領域の行動です。一方、鉄棒が苦手な人にとっては、何十回もの繰り返しを経て、ようやくできるようになった逆上がりは、同じ1回の成功でも全く違う意味を持ちます。

表出される行為として同じものであっても、その行為がもつ意味合いは異なる。背伸びしている状態(ラーニングゾーン)なのかどうか、想像してみることが大切です。

初対面の大人と話す行為は、大人になれば?慣れてきてなんてことないかもしれませんが、子どもたちにとって未知の領域である可能性もある、というわけです。

仮に、答えに窮する沈黙があったとして、それはもしかしたら、必死に考えようと背伸びしている状態なのかもしれないと、よく観察してみることが大切だと思います。

場の要求・欲求と重なる、自分も楽しい対話

さて、話は参加している人たちが楽しんでいる瞬間に戻ります。

思い返したその瞬間の中で、(参加者はもちろん)自分も楽しめていただろうか?

楽しめていたのであれば、それが自分の芸風でつくれる、自分の合った場づくりのスタイルなのかもしれません。

僕の場合はどうだろうかと振り返ってみましたが、参加者がどういう状態だったかって意外と覚えていないこともあるのかも、と感じました。

それだけ、ベクトルが自分に向いていて、場や相手に向いていない。その余裕がない。ということの現れなのかもしれません。

さいごに

今回は、「自分が楽しむスタイル」と「参加者が楽しんでいた瞬間」を振り返りながら、それが重なる部分を自分のファシリテーションの芸風として整理してみました。

あくまで振り返りの手立てとしてなので、これだけで万事正しいとも思いませんし、考察する観点は他にもあると思います。

ので、タイミングタイミングで思いを巡らせるnoteまとめていけたらと思います。自分用に。


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