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スピリチュアルの誤解

(1)宗教やスピリチュアルで人格は悪くなる
 宗教やスピリチュアルの誤解について、少し具体的に話を、いくつかしたいと思います。まずは宗教とかスピリチュアルをやっている人は人格者であるという幻想です。宗教とかスピリチュアルをやっている人は、きっと人格的にも優れているに違いない、と多くの人が漠然と思っていますが、そういうことは全くありません。
 例えば、有名な役者とかスポーツ選手に人格者を期待するのと同じです。相撲は国技と呼ばれ、横綱という存在は心技体共に優れていないとなれないとされていますが、芸能ニュースを賑わす事件とかをみれば必ずしもそうでないことが分かります。学校卒業してから、相撲界という閉鎖的な社会に入り、その他の社会を経験することなく、横綱になるのです。しかも横綱になるためには、時間のほとんどを稽古に割かなければなりません。そういう人物がどうやって人格を磨けるというのでしょうか。逆に人格云々を言うことの方が酷だと思います。
 宗教やスピリチュアルな世界も同じです。宗教で言えば、閉鎖された社会で生き延びて来た人たちが指導者と呼ばれるようになる訳です。一般の社会常識など身につけられるはずもありません。また、近年のスピリチュアルブームで、様々能力などでリーダーと呼ばれる人たちも同じです。社会常識なども必要がなく、スピリチュアル好きな人たちの中という閉鎖空間で評価された人たち、そういう人たちが人格者である訳もありません。
 さらに言えば、根本的な構造の問題があります。人は意識を自分の外に向けるか、内に向けるかしかありません。瞑想とか自分軸とか自分に向き合うという話は、全て人の意識を内に向けさせます。人が意識を内に向けると、自動的に外への意識がおろそかになります。外への意識とは、他人に対する配慮、思いやり、他人と接するコミュニケーション、社会的な役割を果たすこと、家族の中での役割を果たすこと、親としての役割、パートナーシップとしての役割、そういうことが全ておろそかになってしまいます。
 もちろん本人の選んだ人生なのでそれが悪いというつもりもありません。しかし、宗教とかスピリチュアルなことは、意識を自分の中だけにしか向けなくなる傾向を強め、だんだんと社会不適合になっていくのは事実だと思います。これが、宗教とかスピリチュアルをやると人格が悪くなるという理由です。原因は、意識が内に向くか外に向くかの話だけであり、万有引力の法則みたいなもので、人格は悪くなるか、おかしくなるかしかありません。
 もちろん、それをキチンと理解した上でバランスをとりながら宗教やスピリチュアルに向き合うことは良い事だと思いますし、大切な事だと思います。しかし、多くの人が漠然と宗教とかスピリチュアルな人に、人格者の幻想を投影して、それと違うと分かると、詐欺とかインチキとか言い出す、そういう構造はそろそろ終わりにしたらどうかと思います。
 宗教やスピリチュアルに向き合う時は、すなわち自分の内面と向き合う時は、それと同じぐらい自分の外と向き合う、すなわちコミュニケーションとかビジネス、家庭の役割とかに比重をかけなければなりません。これは宗教やスピリチュアルを見分ける基準にもなると思います。

(2)カルマやブロックにこだわると不幸が続く
 最近、スピリチュアルなことに興味ある人の間で流行っている言葉があります。「スピリチュアルハラスメント」という言葉です。どういうことかというと、「あなたには変な霊がついている」とか「あなたはこのままで行くと大変なことになるから、先祖供養をした方が良い」とか、頼みもしないのに言って来たりすることを指します。
 相手に対して優位に立ちたいという気持ちは誰にでもあります。一般に「マウンティング」と呼ばれているものです。見えたり、聞こえたり、感じたりする事で、自分の優位を示そうとしている、そういう感じかと思います。
 ちなみに、霊能とかチャネリングとか言いますが、その人の取っている情報が正しいとも限りませんし、また仮に正しかったとしても、情報が同じとは限りません。チャネリングというのは、テレビのチャンネルを合わせるようなもので、3チャンネルなら公共放送のニュースが映るかも知れませんが、10チャンネルならバラエティが映るかも知れません。ですから、そういう情報を基に相手が望んでもいないのに、勝手に情報を取って伝えるのはルール違反だと思います。
 そして単にルール違反だけなら良いのですが、そういう事をしている本人たち自身も、あまり人生が上手くいっていなかったりします。これも実は原理的なものです。そういう人たちは、「スピリチュアルハラスメント」や「マウンティング」以前にとても大切なあることに気が付いていないのです。
 それは何か、それは「間違い探しという罠」にはまっているということです。これは、現代の教育の弊害でもあると私は思っています。間違いを起こさず、100点満点を取ることこそ素晴らしいという発想です。カルマとか、前世の課題とか、先祖供養とか、とにかく気になる事を一つ一つ潰していけば、問題が解決して幸せになれる、とか思っている人が多いのですが、そういうことでは決して幸せになることも、上手く行くこともありません。どちらかというと不幸になって行くパターンが多いと思います。
 なぜなら「間違い探し」をしている間中、潜在意識には「私は不完全だ、私には何か問題があるに違いない」とずっとインプットしていることになるからです。あまりこういう事に時間をかけ過ぎるぐらいなら、何もしない方がマシかも知れません。
 もちろん「間違い」を見つける事により、格段に良くなることはあるので、「間違い探し」自体は悪いことではありません。しかし四六時中ずっと「間違い探し」をすることには大きな問題があります。そして、この手のタイプの人ほど、自分の間違いだけでなく、他人の間違いを探そうとします。
ビニール緩衝材のプチプチを潰すのが好きな人がいますが、それと同じで、カルマとかブロックとかトラウマとかを探して潰すのが快感になっているのです。課題を潰して行くことが快感になり、大きな問題が無くなっても違う問題を探し始め、場合によっては違う問題を作り出します。こういう人は、常にマイナスの想念の中にいて、間違い探しに夢中になっているので、幸せになれるはずがありませんし、そういう人とは離れた方が健全です。

(3)人を「許す」なんて出来る訳が無い
 宗教やスピリチュアルな人が良く使う単語に「愛」とか「許し」という言葉があります。そして、「人を愛しましょう」とか「人を許しましょう」という文章も良く使われます。しかし、この概念も非常に誤った理解をしている人が多いと感じています。第一、本当の意味で、人が他人を許すことなど出来る訳が無いのです。
 なぜか、それは「許せない」と思っている対象が、あなたの中で作り上げた「相手のイメージ」でしかないからです。それは本当の相手ではありません。例えば、あなたが誰かに酷く傷付けられた、と思っていたとします。相手は傷付けたつもりもないかも知れません。だとしたら、相手は許してもらいたいとも思っていないはずです。
 こういう相手を許そうとしても無理な話なのです。あなたが許せるのは、「あなたを傷付けたと思っていない本当の相手」ではなく、「あなたの中にある、あなたを傷付けたと思っている相手」でしかありません。
 これは「許す」でも、「愛する」でも、全て同じ構造です。あなたは他人と付き合う時に、自分の中に勝手に相手のイメージを作ります。そうしないと人間関係は構築できないのですが、そのイメージと本当の相手の行動や言葉が異なった時に「そんな人とは思わなかった」とか「裏切られた」という事になります。これは相手そのものというより、自分の中での他人のイメージの作り方に起因します。
 ですから「相手を許す」という行為を正確に表現すると、「自分の中に作り上げている相手のイメージを修正する」みたいな表現になります。そういう意味では「人を愛する」も同じですし、もっというと他人に対するアクション全てがこの概念に当てはまります。この原理を知らずに「人を許す」とか「人を愛する」とか言うから、誤解と混乱が生じるのです。
 もちろん他人と良いコミュニケーションを取ることは大切です。その為に本当の意味での「許す」とか「愛する」という行為も大切です。しかし、それは現実の他人をどうこうするという話ではなく、自分の中に勝手に作り上げている相手のイメージをどうするかという話なのです。
 もう一つの話があります。頭の意識と心の意識の分離の話です。人は自分が一つの人格だと思い込んでいますが、自分の中には多数の自分がいます。そしてその複数の自分の意見が一致している訳でもありません。
 頭では「許したい」とか「許せた」と思っていても、心、感情としては許せないとか、許したくないと思っていたとします。そうすると自分の中に捻れが発生して、強力な負のエネルギーを発生してしまいます。このエネルギーというのは想念エネルギーと思ってください。頭でも「許せない」と思っていた方が、捻れは起こらず、負のエネルギーはあまり貯まりません。
 宗教とかスピリチュアルな本とかを読んで、分かったつもりになって、怒らないようにしたり、自分が許せないと思っている相手を許そうとしたりすると、返って悪い状態を作り出してしまいます。これも良くあるパターンです。

(4)悟りや覚醒なんて役に立たない
 宗教やスピリチュアルに興味がある人が憧れるものに「悟り」や「覚醒」という体験です。そしてそれこそ全てと思っている人も多かったりします。しかし、それも思い込みに過ぎないと思います。「悟り」や「覚醒」、場合によっては「神秘体験」をしても、結局は社会不適合になる人の方が多いと私は感じています。
 もちろんイエスやブッダのように世界的な宗教を創り出す人たちもいるので、必ずしも、役に立たない訳ではないでしょうが、99パーセントぐらいの人には役に立たないと思います。これも構造的な問題です。
 このタイプのアプローチでは、通常、「個我(エゴ)」と「本当の自分」を認識し、その「個我(エゴ)」の部分を一時的にオフにすることで、この状態を作り出します。瞑想、座禅、自己観察、自己想起など、呼ばれ方は様々ですが、原理は同じです。「個我(エゴ)」がオフになると、至福感に包まれたり、世の中が光輝いて見えたりします。また、体験後、様々な不安も減少します。私の知人は「誰でも3ヶ月あればこの状態になれる」と言っていましたが、その通りだと私も思います。
 しかし、その状態は単純に「個我(エゴ)」がオフになっただけのことです。「個我(エゴ)」の状態が変わった訳ではありません。「個我(エゴ)」が不整備であれば、現実世界で様々な問題を引き起こすのは以前のままなのです。先程の知人が言っていましたが、多くの覚醒体験をした人に会い、自分と同じ覚醒体験をしたのは分かったが、人としてどうかと思う人が多かったとのことです。
 多分、本当は「個我(エゴ)」をオフにして、「個我(エゴ)」というものを客観的に理解した後で、「個我(エゴ)」を整備する方法が昔は存在していたのでしょう。しかし、現在はそういう話も残っておらず、単純に「悟り」とか「覚醒」だけを体験しようとするから、そういうことになるのだと思います。
 ちなみに少し違った話ですが、座禅というシステムは、坐禅だけでなく、生活全般が座禅になっています。例えば雑巾掛けをする事により、長時間の着座姿勢で頭から降りてしまった血を頭に戻したり、手足の経絡を刺激して身体の健康を維持したり、と日常の作法とペアで座禅というシステムを構成しています。ですから、座禅という座ることだけを取り出しても、本当の座禅にはなりません。
昔のシステムを現代風にアレンジする為には、そのシステムの全体の意味を理解して、必要な要素を完全に移行しないと意味がないのです。もちろん部分だけでも意味はありますが、そういうことを理解しておく必要はあると思います。
 話は「悟り」や「覚醒」に戻りますが、それはそんなに特別なことでもなく、「個我(エゴ)」を整備できないと意味がないということになります。加えて「悟り」や「覚醒」を体験したということで、自意識が過剰になったり、他人を見下すようになったりすれば、返って悪い方向に働きます。そういう意味で、中途半端な「悟り」や「覚醒」は、現実世界を生きる上で、全くと言っていい程、役に立たないと思います。

(5)死んだらみんな霊能者
 悟りや覚醒と似た話で霊的な能力の話があります。多くの人が霊的な力に漠然とした憧れを持っているのかも知れません。そしてそれがスピリチュアルへの興味の要因の一つであることは間違いないと思います。そしてそのニーズに応えるために、スピリチュアルという市場では、チャネリングの養成講座など様々なスクールやセミナーが開催されています。
 しかし良く考えてみれば、死後の世界が存在したとして、人が死ねば霊体になる訳ですので、色々な勉強とか修行とかをしなくても勝手に霊能力は使えるようになるのではないでしょうか。そしてワザワザ生きている間に霊能力みたいなものを無理に開発しようとする必要はないのではないでしょうか。一時期、冗談みたいに「死んだらみんな霊能者」と言っていたのですが、それはこういう理由からです。
 もう少し詳しく説明させていただきますと、霊的な世界は「波動の同じものが集まる」と言われます。逆にいうと波動の違うものとは絶対に出会えません。多分、仏教の霊的世界にいる人は、キリスト教の霊的世界の人とは絶対に出会えない構造になっているのだと思います。だから、肉体という枠を作ることによって、違う波動と出会い、霊界では出会えなかった人や経験と出会うために、人間は生まれてくるのではないでしょうか。
 さらに言うと、自分と違う人や経験と出会うと言うことは苦しみや悩みの原因となります。しかし、これこそが人生の目的だと思うといたずらにそういうものを嫌がるのもどうかと思います。
 霊的世界は思ったことが実現する世界だとも言います。逆にいうと物を創る喜びというものは現世でないと経験できません。苦労して創りあげる経験は物質世界でないと味わえない喜びかも知れません。
 また霊的世界では、お互いの気持ちがテレパシーのように分かり合えるとも言います。みんながテレパシー能力を持っているようなものです。しかし、自分の気持ちが相手に先に分かってしまえば、喜びも半減します。例えばバースデーサプライズみたいなことは、全く出来ないでしょう。好きな人に告白するドキドキ感も味わえないかも知れません。
 こう考えていくと、現実世界は霊的世界よりも遥かに魅力的でワクワクする世界に思えませんか。だから霊的な能力というものは、必要があって自然に出てくるのであればともかく、無理に訓練とか修行とかで開発するものではないのではないかと思います。せっかく肉体を持って生まれて来た意味が半減するので。
 それよりも、霊的世界では味わえない自分の知らない波動の人たちと出会い、自分の予想もしなかった物事に出会い、霊的世界では摩擦がなくて分からなかった自分の問題に向き合い、未来や相手の心が分からないことで、ドキドキワクワクする冒険を楽しむ、そちらの方が健全だと私は思います。ですから無理に霊的な能力を開発しようとする必要はなく、それよりも必要な時に必要な力は宇宙から与えられると思っていた方が良いかと思います。

(6)パワースポットはネガティブスポット
 私の略歴でまたご紹介しますが、私はシャープという会社を辞めた後、何人かの霊能者とかチャネラーと呼ばれる人たちに今後どうしたら良いかを聞いて、「聖地のエネルギー調整をして欲しい」と言われ、各地の聖地と呼ばれる場所のエネルギー調整を始めました。
 なぜエネルギー調整が必要だったかと後で考えると、もちろん地震のような自然的な力の話もありますが、パワースポットブームで多くの人が訪れるのが大きな原因の一つだったように思います。
 観光明媚な観光地も、多くの人が行けば自然と汚れます。もともと聖なる地というのは、人間の願望や欲念を集める場所ではなく、感謝とか祈りを捧げる場所でした。そこにパワースポットブームで沢山の人が個人的な願望とかを強く念じるようになって、段々とエネルギーがおかしくなってきたので、それを綺麗にすることが必要になったということだと思います。パワースポットのお掃除の仕事を頼まれた、みたいな話です。
 逆に言うと、有名なパワースポットの多くは人の願望や欲念が溜まっている土地であり、ネガティブスポットになっている場所が多いと思います。よく良いパワースポットを知りませんかと聞かれるのですが、ネガティブスポットは知っていますよ、と答えたりしています。このようにいわゆるパワースポットは、実はネガティブスポットだったりしますので、霊的に敏感な人にはあまりおすすめ出来なかったりします。ただ、そういう粗い波動の方が人には分かりやすかったりしますので、ネガティブスポットでも凄いという人も多いかも知れません。人それぞれです。
 さらに言うと、神社とか寺とかいうのは呪詛システムとして作られたケースが多くあります。戦争で相手を滅ぼしたりすると、相手の背後の神霊に祟られないように神社や寺を建てたケースです。特に年代の古いものに多いのですが、こういう場所はもともとややこしい状況の上に、さらに人が様々な念を落としていくので厄介です。あまりパワースポットをありがたがるのはどうかと私は思っています。
 これは「こういうものが良い」と世の中で言われているものが実は云々みたいな話ですが、違う形でこういうことを感じるものもあります。波動が高いとか低いとか、次元が高いとか低いとかいう表現です。もともと物理学でいう波動とか次元というのは全く別物であり、アカデミックな方はそういう言い方すること自体がナンセンスと思っていて、だからスピリチュアルとかいうのは妄想とか詐欺だと思われる面もありますが、そういう話を抜きにしても誤解している人が多いと思います。
 波動とか次元は高い方が良いという発想です。確かに精妙なエネルギーとかいうものはあり、それを波動が高いとか次元が高いとか呼ぶのは理解できます。しかし、現実的に生きるには粗い波動とかは必要です。私は波動とか次元が高い方向に進化しているのではなく、もともと高かった波動とか次元が、低い領域をどんどん開拓しているのだと思っています。
 また自己価値の低い人がマウンティングするのに、波動が高いとか次元が高いとかにこだわることが多いので、あまり良い傾向ではないと思っています。

(7)神仏や宇宙人は完全でも善でもない
 スピリチュアルな技術やノウハウのことを書きましたが、もっと言えば神仏といった神霊的存在や宇宙人みたいな存在についても、多くの人が素晴らしい存在で完全だと思っていますが、実際にコンタクトしてみるとそうでもないことが分かります。また、善とか正義という感覚もあまり意味が無いとも感じます。
 人間の親を考えていただいたらいいかも知れません。小さな子供の頃は、親は凄い存在で何でも出来ると思っていたのが、自分が成長するにつれて親も自分と同じ普通の人間に過ぎず、良い所もあるけれど欠点もあることに気付きだす、そういうニュアンスで考えていただければ良いかと思います。人が勝手に自分と神霊との間に、思い込みで差をつけているだけだと私は思います。
 以前、霊感のある女性から守護の龍神のパワーが弱まっているという相談を受けたことがあります。軽い気持ちで「私のエネルギーで、その龍神を回復させたらどうですか」と伝えたら、最初は「人間のエネルギーで、龍神のエネルギーを回復させるなんて」と言われていたのですが、実際にやってみたら簡単に回復して驚かれていました。結局、その人の中に「人間よりも龍神の方がはるかに大きなエネルギーを持っている」という先入観があるために、人間としての力を十分に使えていなかっただけなのです。
 このように肉体は持っていても、人間も神霊的な存在と対応な力を有しています。ただ、肉体という器に入っているために、大きな力は使いにくいという制限があるだけです。そう理解できれば、スピリチュアルとかオカルトとかいうものに対する向き合い方が変わると思います。
 宇宙人についても同じです。最近は多くの宇宙からのチャネリング情報が本やネットで提供されています。そして、その多くが「これこそが真実」というスタンスで書かれています。もちろん真実でないと思っている情報を流す人も少ないでしょうし、使命感があるからこそ、そういうことが出来るとも思います。
 私の場合は少し違った形で入ったため違う印象を持っています。セッションや聖地を調整する時に、霊能者やチャネラーさん経由で出て来た宇宙人たちは、「地球は我々のものだ」とか「俺たちの勝手にして何が悪い」とかいう連中ばかりであり、宇宙人って何でこんな変な奴ばかりなのだと思っていた時期があります。
 中学生時代にSF小説とかが好きだったこともあり、もともと宇宙人というものがコンタクトして来ること自体が胡散臭いと思っていましたが、セッションとかでクライアントさんの問題を解決するために対応することが多くなり、最近は宇宙人がいる、物理的にではなくても、霊的やエネルギー的にコンタクトは出来る、と考えが変わって来ました。
 そして宇宙人を有り難がる人たちに変な宇宙人の対応が出来ないために、そういう話が私のところに回されて来ていたのだと後から気付きました。世の中には宇宙人からのメッセージが溢れています。詐欺とか騙しとかではなくても、変な宇宙人にコンタクトして、適切でない情報を垂れ流していることもあると理解いただけた方が良いと思います。

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