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飲食ど素人女子2人200万円でゴールデン街で店をやる

7月のあの決断

あの決断は
今だに私の人生の中で
一番大きな決断の「まま」であるし

きっと死ぬまでその「まま」な気がする。

「ねえ
この前ゴールデン街に飲みに行った
店内が真っ赤で
おかまちゃんがママやってるお店覚えてる?
あのママ、お店やめちゃうんだって」

「ふーん...」

「ラウンジバー 一緒にやらない?」

中学の頃
「文通」というツールを使って始まった
1才年上のN子ちゃんとは
その時すでに10年以上の付き合いになっていた。

お互いに文化服装学院卒業後、別々の会社に就職。

一時期は新宿区落合の2LDKのマンションを借り、
私の実の妹と3人で住んでいたこともある。

なぜそんな流れになったのかはいまだに不明である。

とにかく。

暑い夏の日
プールに行った帰り、
ガードレールに腰掛けバスを待ちながら
飲食素人どころか、
お酒は飲まないのでBarには行かない私が
勇気を出して彼女を共同経営者として誘ったのだった。

だって
真っ赤な壁が怪しくて
入った瞬間に一目で気に入ったあのお店が
誰か他の人の手に渡って欲しくなかったから。

1人で成功させる自信はなかったけど
2人だったらなんとかなる気がしたし
あの時の私の判断は正解だった。

実はN子ちゃんも
お店のことが気になっていたらしく
あっさりと首を縦に振ってくれたので
2人でお店をやることした。

2001年7月も終わりかけだった。

準備金は200万円

そのBarは
新宿のゴールデン街にあった。
元 赤線地帯。
その昔、1階で飲んでそのまま2階で....という曰く付きの場所。

今でこそ
人が溢れている大人気のゴールデン街であるが、
私たちがお店を始めた2001年は
全く人がいなかった。

ゴールデン街にあるお店は
常連さんがはしごして飲み歩く文化があるので
それでも問題はなかったのかもしれないが

お金になる と言う発想で出店するような人は
誰もいなかった。

ゴールデン街には入り口が何箇所か、ある。
新宿区役所から繋がる入り口から入ると
右手にあるのはストリップ劇場。

そのストリップ劇場の前を通り
ゴールデン街の中に入ると
ひと気がない暗がりに
性別不明の店主がお客さんに声を掛けてくる。

座ってビール1本で1万円取られた
という話も聞いたことがあるし、
この道30年以上の名物オーナーがゴロゴロいて、

一言で表すなら「超怪しい」。

お店の扉は固く閉ざされ
一見さんお断りのお店も多かった。

中学の頃から
「人とは違う人」でいたかった私。
京都で舞妓さんになることも一瞬だけ夢見ていた私。

だからゴールデン街と関われる事は
アンダーグラウンドな世界の住人になれた気がした。

ゴールデン街が怪しければ怪しいほど
それは私の幸せに比例していった。

ちなみに
お酒が飲めない私がゴールデン街と縁ができたのは
当時付き合っていた彼がゴールデン街に
お店を出したから。

内装屋の娘として、
大好きだった彼のお店の看板を作ったり
出店準備を手伝ったお陰で
Bar開店の流れだけはわかっていたのも
出店の強力な後押しになった。

実は私と言う人間は意外にも
悪い事態を想定してリスク回避するタイプ。

なので
いきなりお店にお金を突っ込むことはしたくなかった。

2人で決めたのは
1人100万円出しあい、合計200万円で
お酒や備品含めて全て準備をすること。

不動産屋は通さず
直接大家さんとの契約だったので
仲介手数料不要、
敷金2ヶ月分だけだったのは非常に助かった。

そして契約書は紙切れ1枚。

ゴールデン街らしい始まり方だ。


内装は最低限にして
自分たちでできることは極力自分たちの手でやっていく。

幸い父親も現役の内装屋だったし
彼氏のおじさんも家を作れるような大工さんだったので
 2人には相当協力してもらった。

N子ちゃんもアメリカ留学で
色々自分でやることを身につけてきていたので
特にペンキ塗りは私より得意だった(と私は思っている)

もちろん数少ない友達も総動員。

他のお店との差別化を考え
入り口を入って左側は1段高くして座敷にし、
他のゴールデン街のお店は扉を閉めている中、
うちのお店は扉を開けっぱなしにしたかったので内扉をつけてもらい

9月1日
無事オープンに漕ぎ着けることができた。

実はゴールデン街イチ広いお店

差別化といっても
2001年の段階ではゴールデン街イチ広いお店だったので
ある意味すでに差別化されていた物件ではあった。

その広さを生かしたくて
イベントができるようなお店にした。


真っ赤な壁を活かした店内は
エキゾチックなイメージで統一。

お店の名前は「ラウンジバー クリシュナ」インドの神様の名前。

オーナーは素人女子25歳、しかも2人。

話題性だけは十分である。

とは言っても
すぐに決して満員御礼!大繁盛した訳ではなかった。


広い店内にお客さんが誰もいなくて
ガラ〜んとしている時間もあった。


でも
そのおかげで
お客さんが心配してボトルを入れてくれたり
私たちもここぞとばかりに飲んだ。

キャバクラか(笑)

ゴールデン街の先輩だった彼氏、
お店の物件オーナー、
ほかのお店のオーナー、
もちろん友達やお客さんのおかげで
オープンしてから
売り上げがゼロといういわゆる ボウズの日は一度もなかった。

そして3ヶ月後には投資した200万は手元に戻ってきた。

税金や運転資金などという概念がなかった私は
売上金を封筒からお金を出し
2人で山分けし、
その金額に思わずほくそえんだことは今も覚えている。

そんなお金の管理はまずい気がするからと
数ヶ月後には
税理士さんを入れて給与は定額にしたけども。

お金がなくて完璧ではなかった内装は
お金をキープしていき
年末年始にお店を閉めるタイミングで
毎年少しずつ変えていった。

電気工事、床工事、カウンターのタイル貼りなど。

年末年始の改装工事=その年も黒字で乗り切れたという証拠だ。

お休みは日曜日だけ。

スタッフをすぐに雇う事できない。
時には妹や友達に手伝ってもらいながら
夜8時〜朝の5時まで週に6日
2人でとにかく働いた。

飲めないお酒も飲んだら強くなった。

後日 お店に立たなくなり
飲まなくなったらまた弱くなった。

毎朝
同じくゴールデン街でお店をやっていた彼氏と
お店終わりで落ち合う。


バイクでカラスの群れを避けながら
北新宿の1DKの部屋に戻る。

途中で買ったお弁当を食べ、
カーテンをしっかり閉めて
7時や時には8時に眠りにつく生活。

会社勤めとは真反対の生活。

そんな生活を2年か3年は続けただろうか。

4〜5年たった頃だったか、
N子ちゃんは結婚出産し
私も結婚して2人の人生のステージが変わってから
私はまた別のお店をやることにした。



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