『船場センタービルの漫画』が高校生以来の刺さり具合

町田洋『船場センタービルの漫画』を読んだ。

これまで町田洋という人も、この人の描く漫画のことも知らなかったけれど、元経理担当として「船場センタービルって大阪市税事務所のあるところだなあ」と思い出したおかげで、Twitterで見かけたこのタイトルをクリックした。

そしたらびっくりするほど突き刺さってきた。自分でもなぜかわからない涙がバラっと出た。帰宅したパートナーに即読ませた。

タッチは和田誠の絵本で育った人間にはどこか懐かしく、深いパースはジョルジョ・デ・キリコを思わせたり(もっと近い例えがある気がする)。船場センタービルに行ったことはないけれど、なかなかおもしろそうなとこじゃん、とか。そんな通り一遍の「この漫画おもしろいよ」とは別次元の良さがあった。

それは恐らく、著者の感度の高さからきている。キュートかつ美しいシンプルな線をとらえる目は、恐ろしい解像度で世界をとらえているのではないだろうか。丁寧で繊細で、すべてを均質に見つめる視線。大きな船も、寿司屋の会話も、数十年前の写真も。人が日々置き去りにしている「重要ではないもの」を抱えたままの人にしか描けない気がする。それってきっと、「世間並み」に暮らすには不向きなことではないか。

かく言うわたしにも中高校生だった日々があって、比較的のんきに生きていたなりにも、手の届く範囲の世の中に傷ついていたりした。それは家族や友人の無理解だったり、漠然と感じた世界の理不尽だったり、今となっては具体的に思い出せないようなことばかり。忘れるものかと思っていたけど、やっぱり置き去りにしてきてしまった。

あの頃は読む本すべての世界が痛いほど感じられて、かすかに触れた未知の世界に心動かされ、名前のない巨大な感情に涙し、その感情をとらえきれない自分が悔しかった。人生で一番本を読んでいたあの頃と、今日は同じ涙が出た。



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