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そういう流れになっている

少々心ががさついて、無駄にイライラする時間が増えそうな気配だったその日、目の前のことを放り出して外に出た。

近所の小さな公園にある河津桜。その日はもう葉桜になり始めていた。私は、満開の桜より、精一杯開く花たちのすぐ下から、まだあさい緑色のクシュっとした小さな葉が見え始める葉桜に、強く惹かれる。
子どもの頃からそうだったので、周囲の大人にはよく不思議がられていた。

花は開くことに徹する。美しく開いてやろうとか、この後散ってしまう己の運命など微塵だって考えてはいない。葉の方も花が開いたことを窺って出てくるわけではない。時間なのか、生命の営みなのか、私にはわからないけれど、「そういう流れになっている」というのは、こういうことかもしれないと、その時にふと心に浮かんだ。

解決策のないことなので自分で決めるしかない。その決定は自分の中でほぼ形になっている。正解などないのだから探しても見つかるわけがない。全部わかっているのに、先の先の・・・、或いはうまく(こずるく?)すり抜ける方法を考えて、勝手に混乱している気がする
きっと杞憂に終わるはず。

さて、戻って硯を洗い流して墨を磨り直そう。
筆を執ろう。


帰宅後、反古紙の余白に

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