見出し画像

坂本龍一さんの思い出

はじめにお断りしておきますが、坂本龍一さんとは(当然ながら)一面識もありません。小学生の時にYMOを聴いて衝撃を受け、一時期は熱狂的なYMO & 坂本龍一さんのファンでしたが、いまでは時々聴くだけになってしまいました。この記事はそんな「昔ファンだった」一個人が書く追悼文です。

YMOに衝撃

初めてYMOを聴いたのはたぶん小学生の3年生くらいの時、1980年前後だったと思います。当時レコード店ではTECHNOPOLISやRYDEENがよくかかっていました。田原俊彦のレコード(たぶん)を買いに来た私は、あの独特の電子音を聴いて「ほぇー」とびっくりしました。メロディーは割とキャッチーで、なんかカッコいい! と。当時は言語化できませんでしたが「海外のクラブっぽい」みたいな印象を持った覚えがあります。

YMOはお笑い系番組にも出ていました。なので『増殖- X∞ Multiplies』のスネークマンショーのコント、『サーヴィス』に入っているS.E.T.の寸劇が生まれる素地はもともとあったのでしょう。これらのコントは好きでしたが、小学生の私は「あんなにカッコいい音楽作っているのに、このギャップって……(困惑)️」と思っていました。そういうギャップを含めてアルバムを鑑賞できるスキルはなかったんですよね、当時。

このころからクラスでYMOの布教を始めました。散開コンサートは確かNHKでも放映されたと思います。福引で当てたソニーのベータマックスのビデオが自宅にあったので、録画して何度も観て、小学校の卒業式ではクラスのチームでTECHNOPOLISを演奏しました。パートはエレクトーン、木琴、鉄琴、ピアニカ、タンバリン、それにボーカル(荷造り紐で作ったポンポンを手に持ち、T, E, C, H,...Tokio!と叫ぶ役)という見事に小学生バンド。録画したビデオで、キーボードを操る教授の手元を見て超いい加減な譜面に落とし、みんなで練習しました。

サウンドストリート

NHK FMで「サウンドストリート」という番組がありました。毎週火曜日には教授がDJを務めていたので、番組が始まる火曜日の夜10時にはラジカセの前に座り、カセットテープに録音しながら聴いていました。

この番組のスゴい点……というか今では考えられない点の1つに、出たばかりの新曲やアルバムの曲を、DJの声をかぶせずにフル再生で紹介していたという演出があります。いまなら動画サイトにアップされまくりでしょう。のどかな時代でした。

「読者からのデモテープ」という企画もありました。記憶が曖昧なのですが、小学生の卒業式で演奏したTECHNOPOLISを送った気がします。当然、採用されませんでした。それもそのはず、WikipediaによるとTOWA TEIや槇原敬之も応募していたんですよね。そりゃ小学生の演奏じゃ採用されないよ。

1つ、強烈に記憶に残っているエピソードがあります。それはゲストに鈴木さえ子氏が招かれた時のこと。たぶん、アルバム『科学と神秘』がリリースされたころ(1984年)で、そのなかの1曲『血を吸うカメラ』が紹介されたんです。写真に撮られるたびに人間が1つずつ歳を取っていくカメラが主人公で、タイトルに似合わず明るくメロディアスなので聴いてすぐに大好きになりました。

鈴木さえ子氏が教授に語ったところによると、この曲を生み出すきっかけとなったのが海外作家の小説だったそうです。1周するたびに乗客が1つずつ歳を取っていく観覧車の話です。何それ読みたい! と思ったのですが、あいにくラジオで作者名を何と言っているのか聞き取れませんでした。ただ、海外の作家の名前らしいことだけはわかりました。

以来、本屋さんに行くと海外小説の棚を確認するようになりました。大学生になり、本屋で『黒いカーニバル』を見つけた時の衝撃は忘れません。何という作家の何の小説だか全然わからなかったのに、このタイトルで「あの時に紹介されていた作品だ!」とビビビッときたのです。

その時に購入したのがこの本です。元となった小説のタイトルは『黒い観覧車』で、一番最初に載っています。

番組を録音したテープは残っていました。ラジカセで確認すると、確かに鈴木氏は「レイ・ブラッドペリの短編」と話していました。ようやく出会えた! と感慨に浸ったのを覚えています。あ、全然教授の話ではないですね……。

時々、CDを聴くだけに

高校生ごろになるとすっかり洋楽派になり、坂本龍一さんのアルバムは『NEO GEO』を最後に聴かなくなりました。ただその後『ラストエンペラー』のテーマ音楽でアカデミー賞&グラミー賞をダブル受賞したり、YMOが再生されて新アルバムが出たり、その時々で聴いていました。

が、小学生のころのように、バカになるほど熱狂的に聴いたわけではありません。あれはやはり一過性のものでした。

教授の『音楽図鑑』『未来派野郎』『NEO GEO』も持っていたんですけどね〜。写真集や映画『PROPAGANDA』のパンフは売ってしまいました。

それでもYMOの散開コンサートのフル音源ライヴ版CDが出ると即買ったり、名曲『M16』が入ったベストアルバム『UC-YMO』は予約して購入しました。このころはもう社会人。YMOや教授の音楽を懐メロ的なノリで鑑賞するようになっていました。2023年現在、これらのアルバムは仕事のBGMとして時々流しています。

最初で最後、ご本人の演奏を聴いた

実は一度だけ、坂本さんご本人を拝見する機会に恵まれたことがあります。私が通っていた大学院に、坂本さんが講演に見えたんです。

ライヴのインターネット配信に着手し始めていた坂本さんが学生向けに行った講演で、チケットなどない非公式なものだったと思います。それこそ「押すなよ押すなよ」とばかりに学生が詰めかけました。

ここで何を話されたのかはあまり記憶がないのですが(←おい)、印象に残っていることが1つだけあります。最後、学生からのリクエストで何か1曲演奏しよう、となった時、客席から圧倒的にリクエストされたのが「戦場のメリークリスマス(Merry Christmas, Mr. Lawrence)」でした。

「君たちは、凡庸性やありきたりを破壊していく人材ではないのか!?」(訳:「ありきたりなリクエストだ」)と笑いながら喝を入れたのですが、案外あれは坂本さんの本音だったような気がしています。いかに「戦メリ」が名曲といえど、その後アカデミー賞を受賞したり、その後も素晴らしい作品を多数発表しているのに、若い学生が最近の作品に言及もせず、いつまでも戦メリのリクエストなんて……

……と、私は感じたのですが実際のところどうだったのでしょうか。結論からいうと、坂本さんは戦メリを学生の前で演奏してくれました。

坂本さんは最後に「Ars longa,vita brevis(芸術は長く、人生は短し)」という言葉を遺されました。私にとって教授は「君たちは、凡庸性やありきたりを破壊していく人材ではないのか!?」と喝を入れ、常に革新を追い求めた音楽家という印象です。芸術家というか、革新者。この時代に生きてあなたの音楽に出会えたのは本当に感謝です。
(終)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?