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【短編小説】レモンソーダと指

 キャンバスの中庭を歩いているとピアノ棟からショパンの夜想曲が聴こえてくる。外まで響かせるほどの力強さがあるのに、一つ一つの音は繊細に耳に馴染んでいく。こんな音が出せるのは冨永くんしかいない。あの夏も彼は夜想曲を弾いていた。私は彼の指の動きを思い出す。

 音楽科の学生の中で冨永くんは飛び抜けて成績がよかった。その次席として私がいたのだけれども、雲泥の差だった。私自身も幼い頃からコンクールで賞をもらって音大でもそれなりにやれると意気揚々としていたのに、冨永くんに出会ってその自尊心は崩れ去った。彼は背中を追うことさえも諦めてしまうほどの才能の持ち主だった。

 首席と次席ということで私たちは講義でよくペアを組み連弾した。誰よりも間近で彼の指が鍵盤の上を跳ねるのをみて、その度に嫉妬を通り越してその動作のあまりの滑らかさに見惚れてしまっていた。私たちは7月にシチリア島で開催されるピアノコンクールに帯同する練習生に選ばれた。私は冨永くんと二人で2週間イタリアに滞在したのだ。

 その期間は世界中から集まった音大生たちと熾烈な競争をしながら、プロのピアニストの指導で四六時中練習をする毎日を送った。私は日々課せられる課題や要求に応えるのが精一杯で周りに置いてかれないようについていくだけで必死だった。けれども、冨永くんはそんな日々の中でなんとも優雅にピアノを弾いていた。将来を嘱望される練習生たちはおろか講師として指導にあたるプロたちも彼の演奏には感嘆しきりだった。

 胃が痛くなるような目まぐるしい日々だったけれども、コンクールが始まれば私たちの練習も落ち着き、日々の課題は鑑賞とそれに伴うフィードバックとしての自主練習に移った。時間的な余裕も出てきて、練習生同士で誘い合って夜は飲みに出かけた。海岸を見渡せる高台のパブで美味しい地中海料理を食べてカラフルなカクテルをたくさん飲んだ。

 シチリア島の夜は長かった。私はここにきて白夜というものを初めて経験した。夜の10時を過ぎてさえ空は明るく、街は人で溢れていた。みんなで飲んで騒いだあと、私は冨永くんを誘って街をふらついた。街角のオープンカフェで酔い覚ましのレモンソーダをテイクアウトして、底抜けの空のように爽やかな炭酸に喉を潤しながら海岸線へと続く観光通りの坂道を歩いた。

 無口だと思っていた冨永くんは意外と社交的で私たちはお互いのことをたくさん喋った。今まで感じていた距離が縮まっていくようで嬉しかった。のっぺりとした時が流れる真夜中近くのマジックアワー、そんな時間に私は浮かれていた。

 「こんなにずっと明るかったら眠れないね」
 私はそう言って冨永くんをホテルの部屋に呼び込んだ。そしてやっと明度を落とし始めた空を窓越しに眺めながら、冨永くんにねだった。その街の女の子たちのファッションを真似たルーズなタンクトップは、気を許せばすぐに肩からずり落ちていく。冨永くんは長い人差し指と親指を使って私のブラジャーのホックを外した。

 彼の大きな手が胸の膨らみを覆って沈んでいく。薬指が突起を掠める。私は次第に下降していくその手や指の動きを見つめていた。デニム地のショートパンツのボタンが外され、ファスナーが下ろされる。彼の長い指の感触がショーツの上から体に刻まれる。私が急かすように腰を振っても指のリズムは乱れることなく鍵盤を打つように刻み続けれられて、私はその動きだけで果ててしまった。

 彼をベッドに押し倒そうとしたけれども、彼は首を横に振り拒絶した。「ごめん。やっぱり好きでもない人とはできない」いまさらそう言い捨てて、顔を伏せたまま部屋を出て行った。一人残された私は動転する気持ちを落ち着かせたくて、夏の気温に絆された生ぬるいレモンソーダをひとくち口に含んだことを覚えている。

 その夏に学んだことと言えば、私にはピアノの才能がないっていうことと本場のレモンソーダは苦いということだ。カップの底に沈殿した輪切りのレモンからは渋みが溶け出して、下に行けば行くほど苦味が強くなる。それはそんなに美味しいものではなかった。

【あとがき】
 ひと夏の苦い恋を描きたくて書いた作品ですが、性描写がくどくなってしまったので、苦手な人にはごめんなさい。レモンソーダの爽やかさや甘さ、それと対照的なえぐみというものを表現できていれば嬉しいです。
 僕は仕事を辞めて貯めたお金でヨーロッパ大陸を旅していた時期があるのですが、印象に残っていることのひとつが白夜です。本当に夜の10時でも明るい。そして人々は朗らかに笑いながらオープンテラスでお酒を飲んでいる。暗い夜特有の静けさや湿度も好きですが、孤独が紛れるそんな夜も優しいなって思いました。


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