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歩きスマホをするほうが得な世の中を、どう生きればいいのか?

歩きスマホをするのと、それを避けるのとでは、歩きスマホをする方が得だ。
集中を切らさないまま移動ができて、言うなれば自分の時間を継続できるからだ。

一方で、「歩きスマホをする人を避ける人」は損だ。
歩きスマホをしている人を避ける手間があるし、その間は自分はスマホを見たりできない。自分の時間は奪われることになる。
それに、歩きスマホをしている人は予測不可能な動きをするから、避けるのも面倒だ。

損か得かという点で考えるならば、歩きスマホをしたほうが得なのだ。

予めお伝えしておきたいのは、歩きスマホを目の敵にするのが本旨ではない。

私だって、自分でも気づかないうちに、少なからず歩きスマホをしてしまっているはずだ。そして誰かに迷惑をかけたことがあるはずだ。

だから、正義漢として歩きスマホを糾弾したい訳ではない。
もちろん、歩きスマホが良いことだとも思わないが。

私が考えたいのは、
「損か得かという判断基準においては、損である行為を、あえてするべき理由はあるのだろうか?」ということだ。

なんにも得をしないことを、
神様がいないのに、(あるいは神様がいたとしても、神様が見ていない時に、)
自分の良心に従って行動する必要があるのか?

なんにも得をしないのに、
紳士的に、自身の正義感や美学に則って振る舞う必要がどこにあるのか?
思いやりをもって接することに何の意味があるのか?ということだ。

* * * * * *

「情けは人の為ならず」という言葉がある。
あれは、「恩を売っておけばあとでリターンがあるから、どんどん恩を売るべし」という極めて利己的な言葉だ。

なかなか面白い論理だとは思うが、じゃあこの言葉を歩きスマホ問題に転用できるかと言えばそんなことはないだろう。

だって、街中ですれ違う人に恩を売ったところで、リターンがあるとは思えないからだ。

「情けは人の為ならず」という論理は、あくまで知人同士の関係性において発揮できることだ。

だから、その論理はプレイヤーが匿名であるこの問題では通用しないだろう。

もしも歩きスマホの舞台が、村社会だったら話は違うだろう。
村では、お互いのことを知っているから、評判や評価というものがある。
あんまり歩きスマホをして迷惑をかけていると、「あいつはいつも歩きスマホをしてやがる」みたいな感じで自分の村での評判が下がる。
それは避けたいから、みんなそこまでエゴイスティックな態度は取れない。
つまり、損するからエゴイスティックにはなれないということだ。

* * * * * *

別に扱う事象は歩きスマホじゃなくてもいい。

例えばエレベーター。
エレベーターに乗った時に開閉ボタンの操作をする役回りをすることがある。
開閉ボタンを操作している時は、スマホを見れない。
それどころか、降りる人や乗ってくる人の動向に注意を向けているから、ちょっとした雑事だ。

一番初めにエレベーターを待っていたのに、降りるのは最後になるし、それどころか降りていく人は大抵自分のスマホに夢中で、操作係を務めた人にありがとうの一言も無かったりする。

エレベーターの開閉操作の役を務めたからって、給料が増える訳でもないし、自分の評判が上がる訳でもない。

つまり、損か得で言えば、時間と労力の点で大いに損である。

イヤホンの話でもいい。
図書館やカフェや電車の中でイヤホンをしている人が増えた。
良くあるのが、音漏れがうるさいことだ。
本人は音楽に酔いしれて最高潮だが、周囲の人にとっては雑音でしかない。
少し前に、「自分はうっとり、周囲はうんざり」という電車マナーを呼びかけるコピーが電車内だったか、駅構内に掲示されていたのを観た事がある。
まさにそれだ。

損か得かだけで考えるならば、イヤホンで音漏れさせた方が得で、それを黙って見過ごす方が損だ。

* * * * * *

「いやいや、私は思いやりの無い行動を見つけたら注意するわ!」
という人があるかもしれない。

しかし、相手がどんな人であっても同じように注意できるだろうか?
めちゃくちゃ怖そうな人が相手でも、注意できるだろうか?
もし、人をみて注意する/しないというのを決めるとしたら、それこそ最も悪かもしれない。

あるいは、歩きスマホをする人を見かけたら、今後の人生で片っ端から全員に対して同じように同じ熱量で注意できるだろうか?

もし、「いや全員は無理だから」というのであればそれも変だなと思う。

「(私が)ちょっと疲れているから、今日は見逃す」とか、
「(私が)急いでいたから見逃した」とか、そういうことであれば、
善悪はあくまでその人の体調とかコンディションに委ねられていることになり、これを独善的と言わずして何を独善的と言うのだろうか。実にエゴイスティックである。

* * * * * *

じゃあ、どうすればいいのか?

残念ながら、私はまだ納得できる答えを見つけられていない。
とは言え、生きていかなければならないから、現状の暫定的なとりあえずの答えはある。

それは、
「エゴイスティックに生きるしかない。」
ということだ。

エゴイスティックに生きることを根拠にすれば、結構うまく説明がつく。

そもそも、エゴイスティックに生きることは本当にいけないことだろうか?

ビジネスだって、商業だって、国交だって、ぜんぶエゴイスティックなものじゃないか。

エゴイスティックに生きるのがダメというのは、国交で言うなら自国の利益を追い求めるなということであり、ビジネスで言うなら、明日から営業マンはタダで商品をあげなければならなくなる。

そんなことをしていたら、会社も国も潰れてしまう。

だから、────程度の問題はあれど────エゴイスティックに生きることは人間が生きる上での出発点なんじゃないか?

エゴはピュアな感情なんじゃないか?

そうだ、エゴでいいじゃないか────。

と、言いたいのだが、それでも「なんだかなぁ」と煮え切らない。

やっぱり、私は思いやりを信じたいのだ。
やっぱり、人類愛を信じたいのだ。

けれど、今はエゴイスティックに生きるという答えしか見つからないでいる。

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