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北の国から【ドラマ感想文】

誰しもが持つ心の傷

「北の国から」の登場人物たちは、妻の不倫によって心に傷を負っている五郎(田中邦衛)をはじめとして、何かしら心に傷を負ったり、傷を抱えて生きています。
というより・・・人は皆、多かれ少なかれ、心に傷を持っているかと思います。そこが繊細に描いていて、とても癒されました・・・。

解決がすべてではない―「忘れる」「人を赦す」という心の在り方。

誰しもが持つ心の傷―。

しかし、「北の国から」は、「問題を見事に解決して、一件落着。」というようなフォーマットではありませんでした。そして、そこが一番感動しました。

人生には、解決できない問題もある―。
そしてそれをどうにかしようとするのではなくて、「忘れる。」
あるいは、人を「赦す。」
そういう生き方もあるよ、と教えてくれている気がしました・・・。

たぶんこの思想の根底には、清吉(大滝秀治)が純たちの母親・令子の葬式後のセリフに表れている背景があると思いました。

清吉「天災に対してねぇ、諦めちゃうんです。なにしろ自然が厳しいですからねぇ。諦めることに慣れちゃってるんです。
(中略)諦めちゃうんです。神様のしたことには。わしらにはそういう習慣がついてるんです。」

「北の国から」第23話より フジテレビ制作

「天災のように解決できないこともあるのだから、辛いことは忘れたり、人のしたことも天災だと思って、赦す・・・」そういう考え方なんじゃないかなぁと解釈しました。

時にはこういう考え方が必要で、あるいはこういう考え方に救われることもあるんじゃないかなぁと感じました。

内面を描いた、私小説的なドラマ

「北の国から」はこうした心の傷だったり、人の内面を描いた、私小説的なドラマなんじゃないかと思いました。

内面を描く映像表現① 瞬間的な映像の挿入

内面の描き方ですが、「登場人物たちの頭の中に浮かんでいる映像をパッと一瞬だけ差し込む」という方法が良く使われていました。

小説なら、「その時、彼の脳裏にあの時の光景が蘇っていた。」みたいな文章を差し込むことで表現できるかと思いますが、映像ではなかなかそうした内面の描写ができないですよね。

「北の国から」では、この映像表現方法で各人物の内面を繊細に描写することに成功していると感じました。

実際、私達の心の中でも、ああいう感じで過去の映像がパッと心に浮かんだりしていますよね。

文章には成しえない、映像特有の表現であり、人間の心の動きに近い表現ができるので、効果的だなぁと感じました。

内面を描く映像表現② 純のナレーションをベースにして進行させる

純のナレーションをベースに表現する手法も、内面を描くのに一役買っている気がします。
ところで、「ケイコちゃん宛ての手紙というテイにしている」のは、ユニークですが、どういう演出の意図があるのでしょうか?ここは不明だったので、引き続き考えてみたいです。

富良野の絶対的な自然と、それに従順な「富良野的な」生き方。

劇中に登場する北海道(富良野)の雄大で美しい自然に魅せられます。
雪の積もる白銀の世界、清らかに流れる川、キタキツネ、野鳥といった動物たち。

ただし、その自然がいかに厳しいものであるかも併せて描かれています。
(例えば、雪子と純が吹雪で遭難しかける。)

自然に対して、個人的にはとても憧れがありますが、同時に畏怖・畏敬の念を忘れてはならないとも思わされます。

自然は美しいですが、自然は怖い。
自然は人間にはコントロールできず、ひれ伏すしかないものであることを再認識させられました。

住む土地の風土と価値観はセットかと思います。
この富良野の風土を描くことで、富良野的な生き方、富良野的な価値観が分かります。

つまり、自然のように、コントロールできないものは、諦めて、忘れて、赦して生きるのだと・・・。

北海道を開拓した先人の苦労、土地への執着心。

また、北海道の土地を開拓した先人たちの苦労があったことも認識させられました。

清吉(大滝秀治)が「入植」という言葉を使っていたのが印象的です。
苦労して開拓したから、僅かな土地であっても、執着するのだ、と語っていました。

東京の暮らしに対するアンチテーゼ

東京は、夜も明かりが点いていている。
競争社会で、子供たちは勉強に追われている。
モノに溢れている。人で溢れている。
そういう東京の暮らし(1980年頃が舞台)に対するアンチテーゼが主題の一つかと思われます。

純「電気が無かったら暮らせませんよぉ!」
五郎「そんなことないっすよぉ~。」
純「夜になったらどうするのぉ~!」
五郎「夜になったら寝るんす。」

「北の国から」第1話より フジテレビ制作

実際のところ、いま私は、物質的な豊かさに恩恵を受けている訳なので、軽々しくそういう憧れを語ってはならないとは思いつつ、やっぱりそういう人間の本来的な暮らしに魅せられました。

嘘くさくない。リアリティ。

作品全体を通して、リアリティを重視している気がしました。
子供の感情のリアル、離婚するということのリアル、富良野へ移住するリアル、人生のリアル・・・。
こういうリアリティのおかげで、嘘くさくなくて、感情移入しやすかった気がします。
ちょっと、各視点からリアリティを見ていきたいと思います。

「子供のリアル」子どもって、実は、大人に気を遣ってる

ドラマや映画などフィクションの世界では、子供は、
「大人から見て、こうあってほしいと思う子供像」をもとに描かれていることが多い気がしませんか?

「純真無垢で、無知で、弱い存在」・・・みたいに・・・。

だけど、実際は子供って、よく大人を観察してるし、微妙な感情の機微とか、空気とかを読んでいる気がしませんか?

「北の国から」では子供の描き方がとてもいいなぁ~と。
純も蛍も、下手したら父・五郎とか、周りの大人たちよりもよっぽど気を遣って生きている気がしました。

「子供のリアル②」子供は大人のマネをして成長する

純は大人っぽい口調で話します。
これは父・五郎がはじめの頃、純に対して丁寧な言葉遣いで話していた為に、純はその話し方をインストールしていたからだと思われ。

他にも、純が友達とお酒を飲むマネをしてみたり、大人のマネをする様子が何回か登場します。微笑ましい・・・。

子供が「子供っぽい振る舞い」をするような描かれ方ではなくて、大人のマネをしながら大きくなっていく、という感じをリアルに描いていていいなぁと。

「人生のリアル」お葬式って実際こんな感じだよなぁ。

リアリティに関して、お葬式のシーンがとても、象徴的でした。

一般的に、ドラマのなかで描かれるお葬式はこんな感じです。
まず、棺桶の中を覗き込んで、号泣。
更にそこへ喪主が近づいてきて、
「亡くなる直前、あなたにこれを手渡すように言われたのよ・・・」
と何か生前に重要な役割を果たしたアイテムが手渡されて、そこに泣ける歌が流れ、膝から崩れ落ちて泣き叫ぶ・・・。

みたいな、悲しみにフォーカスした描かれ方が多いかと思います。

一方で、「北の国から」のお葬式。
台所は、料理やお酒の準備などで大忙し。
純や蛍は、アルバムから遺影選び。
喪主たちは、式の段取りをテキパキと組む。
参列者たちは、お酒を飲みながら、久しぶりに顔を合わせる間柄どうし、近況報告などをしてなんだか楽しそうである・・・。

なんか、リアルですよね・・・!!

お葬式って、勿論、尋常ではない程に悲しいことは間違いないのですが、一方でとても急なことで、やらなければならないことがたくさんあり、ドタバタと、とても忙しいというのが現実じゃないでしょうか。

ドラマチックすぎない描き方のおかげで、かえって感情移入しやすいという逆説的な感じがしました。

父のリアル。五郎は別にいいお父さんではない。かといって、ダメ親父でもない。

父・五郎は金八先生みたいな良い説教をするのかというと、そんなこともない。献身的でひたむきな聖人、という訳ではない。
ごくごく普通の父。等身大の父。
父といっても一人の人間な訳で、実際はそんなに立派じゃなかったりする・・・そういう真理が指摘されている気がしました。

最終回のエンドロール

普通、エンドロール(クレジット)では、「役名:俳優名」「照明:スタッフ名」みたいに、「役割:氏名」というセットで記載されるかと思います。
ところが、「北の国から」の最終話のエンドロールでは「あいうえお順」でした。
なんか、上下もない、水平的な、、、みんなで力を合わせて生きる村のような方式で、素敵だなぁと思いました。
ちなみに、倉本聰さんも同列に配置され、か行の一部に組み込まれていました。

おわりに

東京的な暮らしに疲れてしまった人、何かに傷ついた人・・・「北の国から」はそういう人への「富良野的な生き方」という一つの提案とも僕には思われ。きっとそれは、2023年に生きる僕たちにも響くメッセージな訳で。


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