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自分なりの言葉を見つけたとき、なにかが動き出す

「やりたいこと」という”点”を探す作業に明け暮れた社会人生活。

でも、少しずつ。
本当に少しずつ。
求めていた”点”への憧れは薄れ、”線”になっていく。

なにか一つのやりたいことを求める必要なんてない。
たとえばそれが、
「働き方」だって、
「生き方」だって、
あるいはもっと抽象度の高い「在り方」だっていい。
きっと自分に合った抽象度というものがある。

自分が大切にしたいことが見つかると、それだけで生きやすくなる。
それは具体性を帯びた”点”ではなく、たくさんの具体的な物事である”点”が繋がってできた抽象的な”線”かもしれない。
”点”と”線”
そこにはどちらが良い悪いなんていう優劣はなくて。
僕らは人生を懸けて、自分に合った生き方を見つけていくことしかできない。それは人生を懸けるに値する事項だし、そのトライ&エラーを幸せと呼ぶのかもしれない。
そう言い聞かせながら、僕は机に向かってこの文章を書く。


僕はなにかひとつの物事に熱中するということがあまりない。
テレビに夢中になってもご飯の時間になればご飯を食べる。
休みの日でも、平日のご飯を作り置きするために遊びを途中で切り上げる。
体温はいつも緩やかに上下動を繰り返す。
だからこそ、その緩やかな動きそのものを”線”として楽しむ人生が合っているのかもしれない。

少なくとも今はそう思う。


僕は自分に合った幸せを追求する。
そしてそれを言葉に乗せて表現する。
同じように悩むだれかの支えになる。

生き方を見つける。
僕はそのために生きていく。


これが今の僕が見つけたやりたいこと。
今まで探してきたみたいな、”一つの物事”という点ではなくて、”生き方”という線。

自分がずっと悩んできたことを、そのままやりたいこととして受け入れたような感じがする。
(「やりたいこと」と言うとどうしても”点”のイメージが強くなってしまう)
でもそうするととっても楽で、妙にしっくりきた。


じぶんジカンさんが主催するオンラインのワークショップに参加した。

それは「働き方」を考えるワーク。
今の自分の働き方を考えたとき、最も大きな不満は仕事の内容や賃金よりも、雇用形態だった。
会社員という立場が、僕から自由の感覚を奪い去ってしまう。
それはとても息苦しくて、長時間の労働と相まってどんどん僕の世界の空気を薄くしてしまっていた。

「自由」という言葉はどこまでも不確かで主観的ではあるけれど、
「どこにでもいける感覚」を僕はいつも持っていたい。


自分が求めているものが分かると、急に肩の力が抜けた。


「やりたいこと」が見つからずに焦り続けた自分。
でもそもそも、やりたいことを見つけようとする必要すら無いのかもしれない。

焦って焦って参加したワークショップで僕が見つけたのは、仕事の内容という「やること」ではなく、「働き方」を優先する自分だった。


きっと僕らには、
それぞれに合った言葉があって。
全員が同じ言葉を使って人生を考えると、求める必要のないものを求めて焦ってしまうことになる。
その焦りは、僕らの声だ。言葉にならない言葉だ。
それを拾い上げて僕らなりの言葉にできたとき、なにかが動き出す。

読んでくれてありがとうございます。 この文章が少しでもあなたの人生に寄り添えていたら、嬉しいです。