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SNSによる建築批判について

少し前、安藤忠雄氏が設計、寄附した子ども本の森神戸についての批判ツイートが広まり、賛否両論を巻き起こした。
日本においては、なぜか時折、建築への批判がSNSを中心に起こる。
この批判をしているのは本当に一部の人であるが、彼らの言論があまりにも真っ当であるように見えるがゆえに、何も知らずに批判をリツイートしてしまう人も後を絶たない。

この記事はそんな批判が巻き起こるメカニズム自体を考えるものである。

まず、施設を設計した安藤忠雄氏は日本を代表する建築家の一人であるが、その発想や空間の作り方は時としてセンセーショナルであり、一般的、慣習的な機能と照らし合わせると型にハマらないものもある。

初期の代表作である1976年完成の住吉の長屋は、RC造の長屋の中央に外部空間があり、トイレに行くには一度外部に出なければならない。

建築賞の審査の際、建築家の村野藤吾氏が、『賞を与えるべきはこの住宅に住んでのけたクライアントである。』と当時異例のコメントを送ったのは有名な話である。(とはいえクライアントは愛着を持って、40年以上もそこに住まわれ続けているらしい。)

また、今やスターバックスや蔦屋書店、著名建築家の図書館で見かけるインスタ映えする壁面一面を本棚にした空間も、安藤忠雄氏が東大阪市の司馬遼太郎記念館において初めて現代建築として大々的にとりいれたものと認識している。

ステンドガラスから美しい光が本に満たされた空間に降り注ぎ、特に海外の美術関係者はその膨大な知を表現した空間を絶賛する一方で、日本の一部SNSでは本の日焼けを嘆く声や、司馬氏の本が空間レイアウトだけに使われていると言う非難の声もあるようだ。

プロボクサーから独学を経て建築家として独立という異色の経歴一つをとっても、そもそも40年も前から世間一般が当たり前だとする枠から外れたうえで戦うこと、そのこと自体に彼の建築や建築家としてのアイデンティティがある。

その経歴を知ったうえでSNSでたびたび起こる批評を目にしている建築関係者からは
『ああ、また例のやつね。今更やな。』
『安藤さんは良くも悪くも人気だな。』
『厳しく批判する人に限って建築家=安藤さんor隈さんくらいしか知らんからなぁ。。』
といった冷めた声しか聞こえてこないのである。

私個人として今回の批判に対して同じ感想を抱きつつ、特定の作家批判を超えて建築があまりにも偏見だけで語られるのが悲しくなった。

そもそもSNSで批評の対象に晒される建築の全容を、批判する側の当事者たちはどれだけ把握しているというのだろう。

例えば飲食店の食べログで、実際に店にもいかず、料理も食べずに☆1つをつけられるほど経営者にとって迷惑な話はない。

食べ物も建築も、実物を味わって初めて判断が可能だ。

シェフが実際に料理を味わうことなく料理を口コミだけで判断しないように、仮に建築について本気で考えたことのある人なら、SNSの断片的な情報だけで建築を批評することなど、しないというより出来ないのである。
(仮に現地に赴かずに批評する場合、第一線のプロですら、豊富な図面と写真、当事者のテキストがあって初めて、それらしい批評が可能なくらいのものである。)

こども本の森神戸への批判ツイートはそもそもオープン時点のニュースだけを頼りに行われ、一般公開が本当に限定的な段階で行われている。

つまりこの時点で、飲食店に行かず、料理も食わずに☆1をつけるよう感じで行われた、❝一見もっともらしいが、実情を知らずに行われた批判❞であるという結論に至ってしまう。

子ども達が高所にレイアウトされた本をみて、あの本はどうやってとるの?
と疑問を呈した画像がリンクされ、アンチツイートが瞬く間に広がった。
(この手のツイートに対する正確な批評は、別の記事で綺麗にまとめて頂いている人がいるので、そちらを参照されたい。)

NHKのニュースの一部がトリミングされ、ツイートされた様子

短い言葉で共感を得るというのは、建築に実際に身を置いて初めてわかる多様な情報よりも、その言葉の裏に社会が形成した共通認識や集団の無意識による連想ゲームが必ずあるとみている。

例えば今回、その背景をまとめると次のようになる。


①税金の無駄遣い、ハコモノ=悪という見方
何を隠そうと、80年台から90年台にかけて、日本が裕福な時代、税金が建築物に惜しみなく使われた事、(最たる例は年金を削って作られた官僚達の休養施設、グリーンピア計画など)にある。

そのような箱モノを設計してきたのは国と関係のある組織設計事務所がほとんどで、そもそも問題は建物を発注するに至る官僚制度や捻じれた仕組みがある。

しかし、存在やデザインが目立つゆえか、市民の攻撃の矛先が高名な建築家へと向けられる場合が多い。

『税金をこんな所に使うくらいなら』という議論は、この見方によるものだと思う。

例えば東京オリンピックの国立競技場の当初のザハ=ハディト案は、その斬新なデザイン故、景観問題を発端に巻き起こり、最終的にこの背景を共有する日本国民がメディアによって焚きつけられた結果、撤回となった。

これに代わって箱物批判を熟知した上、建築を弱く、存在感を消すように作ることを提唱してきた隈氏がそのあとにスタジアムを実現させた。

この事実を一つとっても、この国が公共建築に対して持つ負の深層心理が如実に表れていると思う。

ちなみに、一連のこども本の森はそもそも建設費を安藤氏の事務所が負担し、運営費を大企業から募ったうえで市に提供しているらしく、是非を保留して状況はすこし異なる。

②凡庸に同調する文化気質
日本には『村八分』という言葉があるように、基本的に他人と同じである事や共通の尺度があることに対して安心感を覚え、社会が当たり前とするルールから離れた事をしたとみなされると、不安を覚え、非難する気質が他国民よりも強いといわれている。

これは飢饉と常に隣り合わせの農業文化の中で、質素倹約にお上からのルールを守り、村一体となって生き延びるための暗黙の生存戦略だといわれている。

この気質は第二次世界大戦中の軍事教育、つまり『天皇を中心とする国家に奉仕することが正義、それから外れることは賊軍である』という国家体制の構築にも利用された。

前述したように、安藤氏はあらゆる世間一般が想定する慣習や同調圧力に対して問いかけを行ってきた建築家である。それゆえに彼の活動や言論に対し、反感を覚える人も少なくない。

私としては建築を批難することと、建築家を批難すること混同するのは、例えば音楽自体とミュージシャンを引き合いに出さずともナンセンスである。

また○○がつくったやつね。みたいな構造のあらゆる批判は既にかなりの偏見を備えていると思う。


③こどもの意見は大人の間違いを指摘するものであるという見方
社会が形成した共通認識から自由な存在を仮にこどもとすれば、彼らが感じ、発する言葉には嘘や方便がない。

「だから、子供が批判しているじゃないか!」という声が聞こえてきそうだ。

いやいや、待ってほしい。

『どうやって赤ちゃんができるの?』『なんでリンゴは赤いの?』『どうして制服を着ないといけないの?』といった具合に。なぜ?と問うことは考えることの入り口だと思うし、大人もそんな純粋な疑問から学ぶことや答えに戸惑うものがある。

さて問題は、子供が放った言葉がただの疑問なのか、興味本位なのか、怒りがこもっているのか、それは文字だけでは知りえないし、ニュースを見た私には興味本位で聞いているようにしか聞こえなかった。

にもかかわらず、ニュースの文字面に大人が色々な憶測や判断を上乗せすることで、子供の言葉が別のメッセージに変換されていることである。

(子供)『手の届かない高いところに本があるが、どうやってあの本をとるのだろう』
              ↓
(大人)『子供たちが本を取れなくて困っている。設計者が悪い。

このような意図された変換が多少なり、いや、かなりの割合で行われているような気がしてならない。

④機能主義論
建築は何よりも機能的でなくてはならないとする論理である。

建築は機能だけの側面では語れないし、単一の評価軸だけで是非を下すべきではない思う。

一方で、機能あってこそ建築は世に生み出される、それを無視しては建築の存在理由が揺らぎ始める。

例えば今回の例が、本に効率的にたどり着き、誰もが静かに本を読むための、いわゆる市町村にかならず1つあるような公共図書館として計画されていたとすれば、炎上は全うな機能主義論をベースにして行われているといえる。

例え最下部の棚に高所に表紙がレイアウトされた本が全て配置されているとしても、レイアウトのためだけに空間の容積を割くべきではない。という意見も真っ当かもしれない。

だけど、この施設は子供が、絵本、ひいてはまだ見ぬ活字文化の奥深い世界観に触れるきっかけとして用意されたものだという。
(堅い話でいうと、図書館法における図書館ではない。)

そのために絵本の表紙が使われ、文字通り本の森の心躍るような空間の一部として機能しているのだとすれば、良し悪しは保留して状況は変わってくる。

この機能主義論の大きな前提とその限界は、ステレオタイプの用途というくくりを前提に話が始まるということで、見た目が似ていても本質的に異なるものを同じ評価軸では語れないということだ。

極論だが、保育園を幼稚園として、プロテスタント教会をカトリック教会として、LGBTQの方々をストレートの方々として判断し、話を勝手に進めることは明らかに愚かなことだが、こども本の森を所謂ステレオタイプの公共図書館を前提に批判することも同様に適切であるかどうか。

私はそもそも、こども本の森をこどもの図書館などと報道するNHKをはじめとしたメディア自体にも問題があると思う。
言わずもがな公共メディアには建築の本質をしっかりと認識し、正確に伝える責任がある。メディア自体の建築へのリテラシーの無さが、建築一般に対する偏見への第一歩となる

以上の4つをもとに炎上ツイートが伝搬する思考回路を探ると次のようになるのは明らかである。

①④市民のお金で使い勝手の悪い図書館がつくられた。これは許されない
②④常識から外れ、不便な建築はいかなる理由でもつくられるべきでない
③子供たちの純粋で正しい声がそれを批難している。

しかし、その明らかさと真っ当らしさゆえ、それらが根底に置いている批判の構造は殆ど①~④に綺麗に当てはまるモノであり、多かれ少なかれ偏見と慣習が生んだ凡庸で自らの現地での判断に欠くものである。

ただし、同じ論理で、現場において特に利用者として想定された子供たちが異口同音に同じようなことを言うならば、批判ツイートも的を得た意見だと言わざるを得ない。

当の私も子育て世代なので、先日例の施設を早速予約して子供を連れていった。

さてどうだったか。

予想に反し、子供たちは嬉々として空間を走り回り、レイアウトされた本をブリッジから見下ろし、書架の下部に行って探すなど、楽し気な様子だった。

3歳になる息子に聞いてみると『また来たい』という。

公共図書館では子供が楽し気に走り回りながら本を見つけるというようなことが起こりにくいし、静かにしなければならないという圧力から小さな子どもを連れていくことすら憚れるのだけど、ここではそれが許されるような雰囲気だ。

子供はそれが有名建築家の作品だろうが、寄付だろうが、高いところに本が飾られていようが構わない様子。。大人のルールに縛られず、のびのびと楽しめる空間の雰囲気が用意されていることだけが何よりも重要なのだろう。

役場の人間を便りにしていては、こんな施設は100年たっても作れない。

それは、あらゆる遊具に注意書きや立ち入り禁止のロープが張られた公園を見れば想像がつく。

本当に一部の人が稀なケースでけがをしたとか、遊具への危険性を申告することで、普通に遊べたはずの子供たちの機会が、公共空間からどんどん剥奪されていく。

それがエスカレートすると、クレームが遊具から自然物へと移行し、木の根っこで躓いたから木を切れという人々が現れるだろう。

そしてクレームを受けた役所の人間は一部のヒステリックな声のためにその場所に木陰を提供してきた、これからも存在したはずの老木を切るだろう。

私はこのような不毛なクレームや無責任な怒りで、日本の公共空間が先細りしていくのを見てきたし、子育てをしてつくづく実感している。

だから、今回の子供本の森についても利用者の一人として、無責任な声によって子供たちの場を奪うようなことはして欲しくないと考えている。

子供たちが楽しみ、愛着をもつ施設を、SNSの断片的な情報のみで判断し、大人たちが良かれと思って批難しているのであれば、これこそ大人による傍迷惑なお節介だ。

何よりも責任感ある個人として、繰り返すようだが私はSNSに回ってくる情報だけで食物や音楽や人間のように多様で、断片的な情報だけはわかり得ぬものを無下に批判したり、絶賛したりしない。

ただ現地に身を置き、色々な偏見を差し置いて、こども本の森神戸におもう建築に対する疑問があるとすれば、次のようなものだ。

・公園とセットの場所ならではのこども本の森が、中之島の前例と切り離して、もう少し工夫ある形で考えられてもよかったのではないか。私にはこの施設が、こども本の森というブランドを既に帯び始めているように思う。


あらゆるSNSの批判に潜む意図された情報のトリミングを経て、建築、あるいは建築家像が不用意に一部の人間によって歪められる事はあってはならない。

生産的な建築の議論が行われる下地が、日本にも形成されていく事を願いながら、この記事を締めくくりたいと思う。


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