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【短編小説】既視感と夏の訪れ

 庭先の睡蓮鉢がきのうまでの雨でへりまで水で満たされている。浮かんでいる睡蓮の葉に一匹の足長蜂が降りている。蜂は、葉のふちから水中を覗き込むようにして水を飲んでいた。ひとしきり水を飲むと、蜂は首を上げた。一拍遅れて小さな波紋が睡蓮鉢に広がる。波紋を残して蜂は飛翔した。
 飛んでいく蜂の後をなるは目で追った。庭の草陰に隠れたなら、そこに巣がある。この季節は紫陽花がよく育ち、その葉陰にしばしば巣が作られていた。庭のどこかに巣があれば退治しなければならないが、幸い蜂は庭から出て、屋根を飛び越えると裏山のほうへ去っていった。
 今日は快晴で、裏山からはるような蝉時雨が響いている。木々は猛烈に茂っていて、樹間の薄闇の中に夏の生き物の濃密な気配が漂っている。
 空気と、けはいが梅雨明けを告げている。
 庭に視線を戻す。台風の暴風に備えて高く頑丈に積み上げられた石垣一枚を隔てて、国道が走っている。南西の方角には室戸岬が見える。これからの季節、岬の先端に雲がかかると、半時間ほどでこの辺りは土砂降りになる。今日は雲がかかる様子はなかった。
 国道をへだてて岩場混じりの狭い砂浜になっている。沖合に白い船が岬の方向へ舳先へさきを向けて、砂浜とほぼ平行に浮かんでいる。ふだんはこの海域では見掛けない水産庁の取締船だ。あの船がいるということは、確度の高い密漁情報が寄せられているのだろう。
 太陽が昇るにつれて草が香り出す。この濃い草の香りが夏の始まりの合図だ。庭の隅では犬が一匹、もう暑さに辟易したように石垣の日陰に寝そべっていた。
 鳴は石垣の国道側に、裏返しに掛けていた板きれを表が見えるように直した。「住み込みアルバイト募集。まかないい付き」と書いてある。石垣の中の建物は民宿になっている。
 鳴の父親は神戸出身だが、趣味のサーフィン好きが高じて四十五年ほど前にこの土地へ移り住んできた。高知県の東端にあたるこの地域には、良い波が来る浜が点在していた。地元の農家の娘だった母と結婚し、この民宿を始めた。鳴は一人娘で、その名前はポリネシアの言葉で波を意味する単語からつけられたらしい。当時の父が持ちうる全ての感性を注ぎ込んだのだろうが、若い頃は少し自分の名前が嫌いだった。それでも四十年この名前と付き合ってくると、さすがに気にならなくなった。
 鳴の高校卒業後は、民宿は家族三人で営んできた。客は遍路と波乗りが半々くらいだ。
 二十代半ばのひと時、鳴は違う名字になって違う土地で暮らしたこともあるが、やがて元の名字に戻ってここに帰ってきた。ここ数年はもっぱら鳴一人で民宿を切り盛りしている。体が衰えた父は電話番くらいしかしていない。それでも長年の経験か、天候からどの浜に良い波が来るかの読みは鋭く、波乗り客からは重宝されていた。母は体調を崩しがちで入退院を繰り返している。
 冬の間は客が少ないが、かき入れ時の夏は鳴一人ではかなりきつい仕事になる。昨年の夏前に鳴は腰を悪くした。宿泊部屋の掃除や客用の大量の布団干しが負担になったらしい。効果に疑問を感じながらも気まぐれにアルバイト募集の札を出していたところ、思わぬ働き手が現れた。
 彼はちょうど今日のような、夏の始まりの日にやってきた。鳴が庭でシーツを干していると、「おもてのアルバイト募集のことでちょっと……」と声を掛けてきた彼は深く日に焼けていた。
 「バイクで日本一周してるんですけどに軍資金が尽きかけてて。短い間しかできないんですけど、働かせてもらえませんか」と申し訳なさそうに彼は言った。
 「夏の間だけでも、おってもらえたら助かるけど」
 「じゃあ、お願いします」
と、少しのやりとりで採用が即決した。
 「厚かましいんですがもう一つお願いが」と、庭にバイクを引き入れながらさらに申し訳なさそうに彼は切り出した。アメリカンタイプのバイクにはシーシーバーにダッフルバッグが縛り付けられ、バッグの口から雑種の犬が顔をのぞかせていた。「どこか、庭の隅にでもおらせてやってもらえませんか」。
 彼、北川君は大阪出身の二十一歳のフリーター。犬は九州のキャンプ場で泊まった時に、そこに段ボール箱に入れられて捨てられていたという。名前は拾った場所から「キャンプ」。拾った時は甘えるばかりの子犬で、情が移って旅のともにしたが、あっという間に育ってしまったのが悩みだった。
 北川君はよく働き、よく食べた。てきぱきと掃除や布団干しをこなし、賄いも一日三食をもりもりと平らげた。食の細った両親と違って、彼ほど食べてくれると鳴も食事の作り甲斐があった。客が早くに寝静まった晩は差し向かいでビールを飲みながら、旅の話も聞いた。
 「旅行中はどこ行ってもだいたいコンビニ弁当で済ましてたし、もともと両親はあんまり魚を食べへんかったんです。魚がこんなに美味いって、ここ来て初めて知りました」
 北川君は特にキビナゴの唐揚げが気に入ったらしい。夕飯を食べた後にも関わらず、ビールを飲みながら次から次へと宿泊客用に作って余ったキビナゴの唐揚げを口に放り込んでいく。鳴もツマミ用にと、多めに作ってやっていた。
 ある晩は将来のことが話題になった。
 「あたしはとりあえず、潰れん程度にここが続けられたらえい」
 人生の折り返し地点を過ぎつつある鳴のささやかな願いだった。
 「俺、したい仕事も思いつかへんし、今は社会のなんの役にも立ってへんけど、体だけは自慢なんです。だからアイバンクとか臓器提供とか、できるもんは全部登録してますよ」
 酔ってそう語る北川君を見ながら、若さのまっただ中にいる人間はただそれだけでまぶしいと、鳴は心からうらやましく思った。
 あっという間に夏は過ぎた。北川君は一度実家に帰るという。
 「実家はマンションなんでキャンプを連れて帰られへんのです。すぐ居場所を用意して迎えに来ますんで、少し預かっといてもらえませんか」
 キャンプもすっかり鳴に懐いていた。北川君よりも鳴を主人と考え始めたフシがある。
 「うん。いつでもえいで」
 そんなやりとりを残して、北川君は大阪へ帰っていった。
 ところが、その後彼から連絡が一切ない。
 嫌なニュースも小耳に挟んだ。バイクで日本一周中の青年が大阪府内で交通事故で亡くなったという。もし北川君本人だったら。そう思うと怖くて、事故者の氏名を新聞で確かめたり、北川君の携帯や、聞いていた実家の電話に掛けることもできなかった。
 不安を抱いたまま、北川君が現れた日から一年が経った。すっかり庭を居場所に馴染んだキャンプを見ると、やっぱり彼はもうこの世にはいない気がした。
 土埃で汚れた「アルバイト募集」の札を拭く。バイクのエンジン音が近づいてきた。残念ながら聞き覚えのある北川君の音とは違う。バイクはちょうど国道を背にしている鳴の対向車線側に止まると、エンジンを切った。
 「すいませーん」。声を掛けてきたのは六十前後の男性だった。後席には妻らしい女性。男性は近くに昼飯を食べられる店はないかとたずねた。
 鳴は岬の西側、室戸市街地の飲食店の場所をいくつか丁寧に教えた。
 男性は鳴の案内に感謝の言葉を返すと、「なんや懐かしい感じの石垣と建物やな」と妻に言った。「途中の景色でもそんな感想言うてたな」と妻が答える。妻は微笑みながら鳴に話しかけてきた。
 「いえね、この人、去年までは病気で視力をなくしかけてたんです。それが角膜移植でまた見えるようになったんですわ」
 「案外、この目の前の持ち主が見とった風景かもしれへんな。目とか臓器とか移植したら、ドナーの記憶も引き継がれたような不思議体験するってテレビでやってたわ」
 男性は、視力を取り戻したらどういう訳か、若い頃乗っていたバイクに無性にまた乗りたくなったという。亡くなった誰かのお陰で光を取り戻したから、こうして感謝の気持ちを込めてバイクで八十八カ所巡りを始めたということだった。
 ゆっくりとバイクが発進した。「お気をつけて」と、鳴は夫婦を送り出した。鼓動が早まっている。あの晩の北川君の話を思い出す。偶然にしては状況が出来過ぎている。やっぱり彼は死んでいて、それを鳴に悟らせるために今の夫婦を寄越したとでもいうのか。
 民宿の固定電話が鳴った。鳴の全身がびくっとする。慌てて受話器を取ると、つい今彼女がその死を確信しかけた北川君だった。意識が現実に追い付かずうっかり「生きちょった」と口走った鳴に、「きつい皮肉やなぁ」と電話口の向こうで苦笑している。
 「ほんますいません。連絡せんといかん思いながらも携帯なくしたり、親父が心臓の病気で入院したりでばたばたしてるうちにすっかり遅くなって。やっと落ち着いたんです」
 北川君は何度もすいませんと繰り返した後、まだフリーターなのでキャンプの迎えについでにこの夏も雇ってくれないだろうかと言った。鳴は快諾した。
 電話を切ると庭に戻った。沖合では眩しいほどに澄んだ空と海の間で、取締船がたゆたうように回頭している。睡蓮鉢にはまた、蜂が水を飲みに来ていた。

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