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【短編小説】あの人

 ぱらぱらと雨粒がヘルメットを叩き始めたと思ったら、あっという間に土砂降りになった。レインウェアを着る暇もなく、一瞬で肌までずぶ濡れになった。
 あの日は今日以上の土砂降りだった。強烈な夏の通り雨に、せっかくウェットスーツから乾いた服に着替えていたのに車へ逃げ込む間もなく、二人とも下着までびしょ濡れだった。
 「このままだと風邪ひいちゃうかもしれないね」。口実に過ぎないと分かっていたが僕は真由美さんの誘いに乗った。彼女は車を海に近い国道沿いの、モーテル?そういった建物に乗り入れた。
 「俊君、ちょっと鏡の前に立ってみて」
 僕が濡れたTシャツとジーンズを脱いだところで、真由美さんが言った。壁に据え付けられている大型の鏡の前に立つ。ボクサーショーツ姿の自分が映った。
 「胸板けっこう厚いんだね。肌もずいぶん黒くなったし」
 「このところ毎日海に出てるから」
 僕が答える。
 彼女が僕の隣りに立った。鏡の中に細く白い体が並んで映る。
 「やっぱりこうして並んでみると俊君も男だよね。二の腕なんて私の倍はありそう」
 「そりゃあ、まぁ、一応は男ですから」
 答えになっているような、いないような返答。彼女が後ろから抱きついてきた。柔らかさと体温が感じられた。女の子とそういったことになるのは初めてではなかったけど、彼女とそういったことになるとはそれまでは思ってもみなくて、その日のその後の記憶は曖昧だ。
 真由美さんとはアルバイト先の、海沿いのサーフショップで出会った。
 ある日、店舗の奥で棚卸しの在庫の確認をしていたら店長に呼ばれた。
 「俊、ちょっとこの人に板の乗り方教えてやってくれ。スジは良さそうだから、教えるのがお前でも大丈夫だろう」
 店先に出て行くと彼女がいた。
 「よろしくお願いしますね」
 彼女が小さく頭を下げて微笑んだ。旦那さんの転勤の都合で神奈川県から引っ越してきたという彼女との出会いだった。
 彼女は波が良い日にはショップ前の砂浜に頻繁に来るようになった。学生時代に中距離走の選手だったということもあったのか運動神経は良く、すぐにボードに立てるようになった。ショップ前の砂浜は安定した波が来る反面、少し上達したら飽きてくる。
 「私けっこうのめり込む性質たちなの」
 上手くなると真由美さんは上級者向けのスポットに行きたがった。ネットのリアルタイム情報で波を調べては車を走らせるようになり、僕は彼女の運転する白いワゴンの助手席に乗ることが多くなった。
 遠出が増え、帰る時間が遅くなると夕食をおごってくれるようになった。親が離婚して母親と二人暮らしの僕は帰りが遅くなっても怒られることはない。「バイト先の人とメシ食って帰る」とメールしておけば、母親はむしろ家事が一つ減ると喜んだ。
 真由美さんはなんでも美味しそうに食べた。好き嫌いなく量もしっかり食べる。
 「俊君、肉はあまり好きじゃないみたいね」
 海岸通りのダイニングに寄った時、彼女が言った。
 「ウチ、親が二人とも魚好きだったから。三人で暮らしてた頃は魚のおかずが多かったです。自然と僕も魚が好きになりました」
 「私は生まれて大学を出るまではずっと八王子に住んでたから、魚が食卓に上がることは少なかったな。弟も魚嫌いだったし」
 「弟さんいるんですか」
 「うん。社会人三年目だから俊君より少し年上だね。そう言っちゃったら、私なんて俊君からするとおばさんの範疇かな」
 彼女がロコモコ風なんとかプレートのチキンを頬張りながら探るように話した。海から上がった後で化粧っ気はまるでないが、それでも十分に美人だった。本人はそれほど気にしていないようだが、僕は「これ以上日焼けするともったいないのにな」と思っていた。
 過ごす時間に比例して彼女に惹かれていった。おばさんなんてとんでもない。かといってお姉さんといった感じでもない。そして土砂降りの日にああいうことになった。
 「このところ真由美ちゃんに付き合いすぎじゃないか?」
 ある日、店長が声を掛けてきた。
 「その、なんだ、邪推するやつもいるから。気をつけろよ」
 普段はあまり他人に干渉しない店長が珍しく心配そうに言った。残念ながら邪推ではなく、ショップの常連客なんかに興味本位で噂されている内容は大部分がほぼ真実だった。彼女は一世代近く年上で旦那さんがいて、僕はあと半年とちょっとで卒業とはいえ高校生。十分に周囲の人間の好奇心を刺激する状態だった。
 大きなうねりが入ったある日、彼女がボードから落ちてしばらく水面に顔を出さなかった。波に巻かれて上下が分からなくなっていたようだ。慌てて手を貸して、砂浜へ連れ戻した。しばらく彼女はごほごほとえづいていたがやがて明るく、「あー失敗した。死ぬかと思った」と笑った。
 「大丈夫ですか」
 「うん、もう落ち着いた。そういえば俊君は『ブラックアウト』したことある?」
 「ないです」
 「ブラックアウト」とは平たく言うと酸欠による失神だ。
 「私の知り合いでフリーダイバーがいるのね。彼女、沖縄の真栄田岬あたりで潜る練習をしてたんだけど、ある時、海面まであと数メートルってとこでブラックアウトしたんだって」
 幸い彼女は一緒に練習していた仲間にすぐ助けられたということだ。
 「その子が言うには、一度ブラックアウトする癖がつくとなかなか直らないんだって。なんでかって言うと、酸欠で失神するのってすごく気持ちいいらしいの。脳がその気持ちよさを覚えてしまって、変な言い方だけど、快感を得たいがために失神する癖がついちゃうんだって」
 「命懸けの気持ちよさですか。怖いな。どんな感じなんだろう」
 「試してみる?」
 突然、真由美さんが僕を砂の上に押し倒して首に手を掛けてきた。結構な力で彼女が僕の頸動脈あたりを抑える。なぜか抵抗する気はしなかった。こめかみあたりがジーンとして、自分の血管がどくどくと脈打っているのが分かる。本当は数十秒のことだったのだろうけどすごく長い時間に感じられた。彼女がちょっと本気を出して、僕が「それでもいいかな」とかって思えば、そのまま簡単に彼女の手に掛かって気を失い、下手をすればこの世とお別れになりそうだった。
 「なんてね、冗談」
 真由美さんが手を離すと悪戯っぽく笑った。でも目は笑ってなくて、少し悲しそうだった。泣き笑いみたいな表情。
 首から頭にかけての血管が急速に流れを取り戻していくのを感じる。血管が開いてじんじんと脈打つ感じが、生きている実感のような気がした。

 彼は突然バイト先にやってきた。
 「萩野俊ってのは君か」
 ネクタイ姿のサラリーマン風の男に声をかけられた。
 「そうですが」
 答えるとほぼ同時に、右拳で横っ面を殴られた。倒れたところを、三度ほど脇腹を蹴られた。うめく僕を尻目に、彼はゆっくり歩いて去っていった。

 「ごめんね。本当にごめんね」
 数日後、真由美さんにコーヒーショップに呼び出された。彼女はただ謝り続けるだけだった。
 「みんな私が悪いの。俊君にも彼にも」
 さらに謝罪の言葉を何度か呟いた後、彼女は「もう、会えない」とはっきりと口にしてうなだれた。肩が小さく震えている。
 泣いているのだろうけど、顔に被さった黒く美しい髪で表情は見えない。
 窓の外にはいつもの白いワゴンが停まっていて、運転席に彼の姿が見えた。もう一度「ごめんね」と言うと真由美さんは席を立ち、店を出ていった。彼女が助手席に乗り込むと車が発進した。遠ざかって行く白いワゴンを、僕はただただ見送っていた。
 さらに数週間後、僕らの知る名字ではなくなった真由美さんからの絵はがきが一枚、アルバイト先に届いた。知らない風景の写真に、一人で新しい生活を始めたという短い一文が添えられていたが、その新しい生活を始めたという住所はどこにも書いていなかった。
 「ちゃんと年相応の釣り合う彼女作れよ」
 「新しい彼女ができたら、良い思い出に変わるから」
 しばらくの間、店長や、やさしい常連客がいろんな言葉を掛けてくれた。

 店のシャッターを閉めて、スクーターに跨る。秋になったショップ前の砂浜は一気にサーファーが減っていた。エンジンを掛けたところでちょうど降り始めた。
 彼女が、いつかどこかで再会しても気付かないような普通のおばさんになっていればいいのに。誰だっけあの人、みたいな。
 ヘルメットのバイザー越しに西の空は雲間から薄く日が射しているのが見える。この雨はすぐに止むようだった。

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