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【短編小説】かいじゅうプール

 十月も半ばを過ぎ、泳ぎに来る子供はぐっと減った。温水なので泳ぐぶんには冷たくはないのだが、日ごと秋めいた空気が濃くなることもあって、そこはやはり子供たちももうプールに来る気分じゃないのだろう。利用者の年齢層も一気に高くなって、施設内に漂う空気も「村営健康プール 日だまり」という名称に相応しくなってきた。
 監視室から一番遠い水中エクササイズ用プールでは、御木元みきもとさんが初級講習の指導中だ。体育大卒のインストラクターで二十代後半、鍛えられた体にスイムウェアが良く似合う。対して受講生は下腹をはじめ体の大部分のパーツがぼってりと緩んだおばさま方が大半だ。揃って紺のスイミングキャップに紺のワンピースの水着で運動している姿は、見ようによっては茄子が水洗いされているようだ。おじいさんが二人混ざっているが、運動より御木元さんの水着姿を見るのが目的なのは周知の事実だ。講習後に二人揃って、「今日も眼福やったのう」と目尻を下げながらサウナ室へ行くのを何度も目にした。
 七月後半から始めたここでのスタッフアルバイトも今日で最後だ。三カ月間、良い経験をさせてもらった。
 歩行プールに目をやる。久田ひさださんがいつもの不機嫌そうな顔で歩いている。今日はちゃんとスイミングキャップを被ってくれている。彼には最初に苦い洗礼を浴びせられた。
 髪の毛が落ちるのを防ぐため、プール内はキャップを被るのがルールだ。アルバイトを始めて数日目のこと。久田さんがキャップなしで水中ウオーキングをしていた。忘れてきたらしかったが、その場合はプールには入ってはならない。1回百二十円で貸出用も用意している。抜けるほどの毛もないとはいえ、レンタルキャップを被ってもらうか、プールから出てくれるよう何回か注意したら、彼は「支配人を呼べ」と怒りだした。
 村内には高校が一校あるが、久田さんは退職前はそこの校長だったという。元校長たる儂にそんな無礼な口をきくがか、支配人は教え子やぞ、指導がなっちゃあせんということらしい。騒ぎ出した久田さんに気付いたらしく、支配人が「先生まぁまぁ」となだめにきた。支配人は、この人怒ることがあるんだろうかと思うくらいいつも穏やかで年は五十手前くらい。「申し訳ありません。教育が行き届きませいで」。そうにこやかに対応した。「まったく、新人なら儂に『よろしくお願いします』の挨拶の一言くらいないとおかしいやろうが」、そんなことも久田さんはぶつぶつと言っていたが、支配人のお陰でその場は収まった。久田さんの対応をした後も、特に僕に注意するでもなく、支配人は事務室へ戻っていった。穏やかというよりはどこか、アルバイトの存在に無関心な感じだった。
 久田さんはそれからも、なにかの折りに僕が「久田さん」と呼び掛けるたびにむすっとした。観察してみると、常連さんたちは「久田先生」と呼んでいた。面倒を避ける知恵だろう。だからといって、僕が彼を「先生」と呼ぶのもちょっと違う気がするのでさん付けで通してきた。いっそ最後に、「久田先生」とでも呼んでみようか。
 「お疲れ。今日もええダシが出ゆうようやな」
 明るく毒舌を吐きながら勝田さんが監視室へ入ってきた。利用客を鶏ガラに例えるとは、僕の茄子の例えよりもひどい。村の正職員で四十手前。人当たりも面倒見も良く、村の若手職員の中で人望も厚いそうだ。この施設も彼一人で回っているとも言われていて、いずれは村議や村長になるんじゃないかとも噂されている。
 「ダシよりもっとヤバいものが出ゆうかもしれませんよ」
 先日は四宮しのみやのおばあさんが孫と来ていた。その孫がぼたぼたと鼻血を垂らしていたのだが、「いつものことやき。どうせすぐに止まる」と、四宮さんは鼻血をプールに垂れ流さしていた。血も困るが、もっとひどい何かを垂れ流している人がいるかもという最悪の可能性も完全には否定はできない。
 なにしろ、この三カ月で色んな人を見た。
 塚原さんは僕が知る限りでも三回、救急車を呼ばれている。七十も過ぎているのに付属ジムでの筋トレを頑張りすぎて倒れたり、距離を泳ぎすぎてチアノーゼみたいな顔で監視室に助けを求めてきたりするのだ。彼がそこまで頑張る日は大抵、西本さんという品の良いおばあさんが来ている。
 監視室の窓ガラスをコツコツと掛橋さんが叩いた。彼も問題児(問題爺?)の一人だ。
 「こんにちは。どうしました?」
 「儂、いつもと雰囲気が違わんか」
 全身から「かまってくれオーラ」を放ちながらそう言う。
 掛橋さんはほぼ一日中施設にいる。目的は運動ではなく、話し相手だ。朝一番に来てロビーで備え付けの新聞を読みながら、顔見知りが来るのを待っている。顔見知りが来ると、その人の運動の邪魔になるのも構わず、ぴったりと張り付いて相手の興味などお構いなしに世間話をし続ける。昼に一度、昼食のためか施設からは出て行くが、午後になるとまた戻ってきて新たな話し相手、むしろ犠牲者を見つけてはぴったりと張り付く。多い日はさらに夕飯を食べに自宅へ帰った後に三度目の来館をし、さらなる獲物を物色している。相手が泳いでいようが、講座受講中であろうがお構いなしに、ひたすら自分の喋りたいことを喋る。あまりに煩わしいので、彼を見掛けると帰ってしまう利用者もいるほどだ。
 「いつもと違う所ですか?」
 さっぱり分からない。勝田さんを見るが、彼も「さぁ」という顔をしている。
 「分かりません。どうしたんですか?」
 「いつも右分けの髪を今日は左分けにしてみたがよ」
 全世界人口がそのことに興味ないと思う。僕の鈍い反応に、「若い者は観察力がないのう」、そう呟きながら掛橋さんはキャップを被ると監視室から離れていった。
 「なんなんですかね、あの人」
 勝田さんに聞いてみる。
 「孤独という病気やろ。奥さんが…」
 「亡くなっちゅうがですか」
 「いや、一切相手してくれんらしい」
 と、勝田さんが冷ややかに答えた。家に居場所がなくて、相手してくれる誰かを求めてジムへ来ている。狭い村のことだから、皆が知っていることらしかった。
 「かわいそうやけど死ぬまでああゆう鼻つまみ者やろう。嫌われちゅうことに気が付かんがは、幸せっちゃあ幸せやけんどよ」
 さっきのダシの冗談ではないが、勝田さんは時折手厳しい。
 「人じゃなくて、『かいじゅう』の群れみたいやな」
 プールを眺めながら彼が言った。
 「ゴジラとかキングギドラですか」
 「いや、海のけだもののほうのかいじゅう。俺は時々、水族館のアシカとかセイウチのプールを見ゆうように錯覚する」
 「言われてみれば確かに」
 僕がそう答えると、「村民の前では言えんな。どう伝わるか分からんし」と、彼は自嘲気味に呟いた。僕は隣の市の在住者なので、バイト以外にこの村との接点はない。
 「少しは御木元と親しくなれたか?」
 話題が変わる。
 「いいえ、全然。なんかこう高嶺の花やないけど、近づきがたいというか、共通の話題が見つからんというか」
 そうなのだ。実はなんとか御木元さんと親しくなりたいと思いながらも、きっかけを掴めないままバイトが終わろうとしている。ここに来なくなったら、まず彼女との接点は無くなってしまう。
 特徴のあるエンジン音がした。プール越しの窓の向こう、モスグリーンのボルボが駐車場から出ていく。
 「副支配人、また早退ですね」
 「遅れてくるわ、早退するわ、休日当番せんわ、したい放題やな」
 傍若無人な独身アラフィフの副支配人は村長の実の妹だ。「うても無益やき、横領さえせんでくれたらそれでえいよ」と、勝田さんも匙を投げている。
 「支配人と副支配人って、ほんまながです?」
 二人は長く愛人関係にあるという噂がある。
 「残念ながら事実や」
 勝田さんの答えは衝撃的だった。狭い村内で面白おかしく捏造されたネタではなかった。
 「あんなぐさぐさのオバちゃんにしたい放題させゆうのって、支配人、凄いですね」
 勝田さんが応えた。
 「ぐさぐさてゆうたち、若い頃は分からんぞ。あれでもあと十才若かったら、俺やって…」
 「俺やって?」
 「やっぱ、ないな」
 二人で吹き出した。ちょうど講習を終えた御木元さんが監視室へ入ってきた。
 「ミキティー、お疲れ」
 「やめてください、その呼び方」
 彼女が照れて笑う。ぱっと音が聞こえそうな、大輪の花のような華やかな笑顔だ。
 「御木元、今夜空いちゅうか」
 「特になんもないですけど」
 「ゆずるの送別会兼慰労会をするけど、来んか?」
 そんなことは慰労される側のはずの僕は一切聞いていない。勝田さんのとっさの嘘だ。御木元さんは一瞬、僕の顔を見たが、
 「ああ、今日で最後やったよね。ええよ、行きます」
 と微笑むと、更衣室へと向かっていった。
 「という訳で頑張りや、若人わこうど
 監視室から御木元さんが消えると、にやりとけしかけるような笑顔を勝田さんは僕に向けた。

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